俗物性と作家
本文約2,300字 ・ 読了時間 約5分
あらすじ(AIが作成しました)
作家の外部条件と創作能力の関係を論じる。流行作家が通俗的な要求に応じることを単なる堕落とみなす精神主義を批判し、芸術の純粋性は心の励みとなる外部からの条件に支えられると説く。ドストエフスキーの例を引きつつ、人間は本来はかなく自信を失いやすい存在であると指摘し、作家が傑作を生むためには、精神論ではなく生活の保証や実質的な環境整備が必要であると主張する。
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(上)
先日高見順君の文芸時評に私の「逃げたい心」の序文の文章をとりあげて、作家は外部条件に左右されて、作品が書けたり書けなかったりするようではダメなので、作品は作家が書くべきもの、「もっとマシな作品」が書けるはずで、書けなかったなどというのはウソだ。能力がないから書けないだけだ、と言っているが、果してそんなものか、文学とか人生というものがそんなに必然的に動いて行ってくれるものか、これは高見君へのお答としてではなしに、日本在来の精神主義が常にかくの如きものであるので、かかる在来の通念に対して一言したい。
雑誌社に通俗小説を強要されて、通俗小説しか書けないというのは作家の罪だということは、当り前のことで、古来傑作の半分ぐらいは雑誌新聞社の俗悪な要求に応じ、また作家自身の金銭の必要に応じて作られたもので、動機と作家活動とは別のものだ。チエホフの傑作は劇場主の無理な日限に応じて渋面つくりながらとりかかったものであるし、バルザックはただもう遊興のために書きまくり、ドストエフスキーは読者の要求にひきずられてスタヴロオギンの性格まで変えていった。
また、インスピレーションの多くは模倣から出発して独自な創作が行われるもので、純粋な作家は俗悪な取引に応じて、それを逆に独自な活動、自我の発見と化す天来の才能をめぐまれている。
実際、自由というものははなはだしく重荷なもので、お前の勝手に傑作を書けと言われると却って困るものであり、これこれの条件で、こんな作品を書いてみないかと言われると、それをキッカケにして自らも測らざる活動が行われ易いものなのである。だから外部から俗悪な誘惑の多い流行作家というものは、むしろ傑作を書き易い条件のもとにおかれているもので、私に「マシな作品」が書けなかったという外部条件はそんなことではない。
人間は気持が落ち目になるとダメなものだ。勝負は水ものといい負け癖がつくと天下の横綱もだらしなく負け、もっと理知的な、存分に思考の時間を費している碁や将棋でも、存分に考えたあげくあべこべに大悪手をやらかすようなこととなる。これを外部条件というのである。