一種の攘夷思想
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あらすじ(AIが作成しました)
明治期の日本で台頭する排他的な攘夷思想と、無批判な欧化主義の双方を批判する論考。著者である北村透谷は、狭隘な国家主義や旧思想の墨守を戒め、東洋と西洋の文明が相互に接触する現代において、真の理想を追求すべきだと主張する。また、世界的な平和主義の潮流に背を向け、自国の特殊性のみを強調する態度を危惧し、思想家や宗教家が国境を越えて人類の平和と理想のために協力することの重要性を説く。
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三千年を流るゝ長江漫※[#「さんずい+(くさかんむり/奔)」、83-上-3]たり、其始めは神委にして、極めて自然なる悖生にゆだねたり、仲頃、唐宋の学芸を誘引し、印度の幽玄なる哲学的宗教に化育せられたりと雖、凡ての羣流、凡ての涓※[#「さんずい+會」、83-上-5]を合せて、長江は依然として長江なり。満土を肥沃し、生霊を育成し、以て今日に至らしむ、この長江、豈に維新の革命によりて埋了し去ることあらんや。
われは心酔せる欧化思想を抱けるものにあらず、我国固有の思想なる三千年来の長江は、我軽舸を載せて奔らしむるに宜しきを知るは、世に所謂国粋論者なる者に譲るところなきを信ず、然るも彼の舶載せるものと云へばいかなる者をも排斥し尽さんと計るものには、同情を呈する事能はず、況んや、気宇甕の如く窄き攘夷思想の一流と感を共にする事、余輩の断じて為すこと能はざるところなり。
余輩は綿々たる我皇統を歴史上に於て倨負するの念なきにあらず、然れども滔々たる世界の共和思想の逆流に立つて、どこまでも旧来の面目を新にする勿らん事を、熱望するものにはあらず、要するに世界の進歩の巨渦に遡つて吾運命を形くる事は、人力の為す可からざるところなるが故に、吾人は思想上に於て苟くも世界の大勢に駆らるゝ事ある時には、甘んじて其流勢に随はんと欲するものなり。
吾人は我邦の公共事業の舞台に立つて役者たる者が、少しく気局を濶大にせん事を願うて止まざるなり、之を政治家に例すれば、県治の政事海にあるものは論争常に県治の中に跼蹐し、之れを全国の政事海に徴すれば、奔馬常に狭少なる民吏の競塲に惴々たるに過ぎざるなり。
高言壮語を以て一世を籠絡するを、男児の事業と心得るものは多し、静思黙考して人間の霊職を崇うせんと企つる者は、いづくにある。東西両大分割の未来の勝敗を算して、おもむろに邦家の為に熱血を灑ぐものいづくにある。杳遠なる理想境を観念して、危淵に臨める群盲の衆生を憂する者、いづくにある。