「歌念仏」を読みて
本文約4,200字 ・ 読了時間 約9分
あらすじ(AIが作成しました)
近松門左衛門の「お夏清十郎歌念仏」における女主人公の造形と恋愛の描かれ方を論じる評論。著者は、本作が巣林子の作品群の中で最も自然に近く、神聖な恋愛へと昇華する霊韻に満ちた傑作であると評価する。劇中での肉情から情愛、そして聖なる恋愛へと至る過程を称賛しつつも、最後には仏教的無常観へと帰結する構成に触れ、日本の恋愛文学における生命感の欠如を鋭く指摘し、未来の日本文学のあり方について問いを投げかける。
💰 この本を応援する(投げ銭)
巣林子の世話戯曲十中の八九は主人公を遊廓内に取れり、其清潔なる境地より取り来りたる者は甚だ少数なる中に「お夏清十郎歌念仏」は傑作として知られたり。余は「歌念仏」を愛読するの余、其女主人公に就きて感じたるところを有の儘に筆にせんとするのみ。若し巣林子著作の細評を聴かんとする者あらば、逍遙先生又は篁村翁が許へ行かるべし、余豈巣林子を評すと言はんや。
中の巻の発端に「かゝる親には似ぬ娘、お夏は深き濡ゆゑに、菩提心と意地ばりて、嫁入も背ものび/\の」………と書出して、お夏に既に恋ある事を示せり、然れども背ものび/\といふところにて、親々の眼には極めて処女らしく見ゆる事を知らせたり。清十郎(即ちお夏の情人)が大坂より戻り来りたる事を次に出して、「目と目を合はする二人が中、無事な顔見て嬉いと、心に心を言はせたり」と有処にて、更に両人の情愛の秘密を示せり。
然に清十郎が沓脱に腰をかけて奥の方の嫁入支度を見て、平気にて「ハアヽ余所には嫁入が有さうな云々」と言ひしときにお夏が「又ねすり言ばつかり、おんなじ口で可愛やと云ふ事がならぬか、意地のわるい」と言ふ言葉を聞けば、お夏は既に処女にあらずして莫連者か蓮葉者のいたづらあがりの語気を吐けり。読んでお夏が「我も室で育ちし故、母方が悪いの、傾城の風があるのとて、何処の嫁にも嫌はるゝ、これぞ宜い事幸ひと、猶女郎の風を似せ」と云ひ出るに至りては、お夏が無邪気なる意気地と怜悧なる恋の智慧を見るに足るべし、「あの立野の阿呆顔、敷銀に目がくれて、嫁に取うといやらしい」と云一段に至りては、彼の恋愛の一徹にして処女らしきところを蔽ふ能ず。