一老人
本文約3,400字 ・ 読了時間 約7分
あらすじ(AIが作成しました)
ある村で、東京での職を失い帰郷した老人、四郎右衛門が突然悲痛な叫びを上げ、周囲から発狂を疑われる。彼は農村で寄る辺なく過ごす自身の境遇に葛藤し、世間体や金銭の問題、さらには故郷の屋敷を他人の管理下に置かれる屈辱に苦しむ。兵役や勤労に励む世の中に対し、無為に生きる自らを「穀つぶし」と呼び、周囲の偏見と対立しながらも、内に秘めた矜持とやり場のない憤りを抱えて孤独に日を送る様子を描く。
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一
「諸君! 我輩は……」
突然、悲憤の叫びを上げたのである。
ちょうど甥が出征するという日で、朝から近所の人達が集まり、私もそのささやかな酒宴の席に連っていた。
障子の隙間から覗いた一人が「四郎右衛門の爺様」だと言った。
怒鳴った爺様は、さめざめと泣き出したのである。着物の袖と袖の間に顔を突っ込み、がっくりとして声を発していたが、やがて踵をかえし、すたすたと門口へ消えて行く。
「気でも違ったんじゃあるめえ」と一人が言い出した。
「酔っ払っていたんだねえか。」
「いや、この二三日酒はやらねえ様子だっけな。昨日もなんだか訳の分らねえことしゃべくりながら人に行き逢っても挨拶もしねえで、そこら歩いていたっけから。」
「どうもおかしい。」「普通じゃねえな。」
私はまだこの老爺に直接顔をつき合せたことがなかった。家内はしばしば道で逢って話したり、村の居酒屋で老爺がコップ酒を楽しんでいるところへ行き合せ、限りもない追憶談の中へ引き込まれたりしたらしく、時々、老人のことを噂するのであった。
「ひとりぽっちで淋しいんでしょう、うちへ遊びに来るなんて言ってたわ。」
東京生活をした者は、やはり東京生活をしたことのある者でないと話が合わない、と口癖のように、話し合った最後には付加えたという。
四郎右衛門という家は、同じ部落内のことで、私は幼いときから知っていた。しかしこの老人の存在は、私の知識の範囲外にあったのである。まる二十ヵ年の私の不在の間に、ここの家は空家になってしまっていた。私の記憶にあるのは、陽だまりに草履や笠を手づくりしている一人の老婆と、ささやかな呉服太物の包みを背負って近村を行商して歩いていた四十先きの女房の姿である。この二人のほか、誰もこの家にはいなかった。亭主に死に別れたこの女房には一人の子供があって、それはどこか他県の町に大工を渡世としているとかいったが、たえて故郷へかえるような様子は見えなかったのだ。