本文へ移動
TORENDIA

沼畔小話集

本文約17,200字 ・ 読了時間 約35分

あらすじ(AIが作成しました)

牛久沼畔に伊田見男爵を名乗る優男が現れる。男爵は画家として写生旅行中だと語り、M教師や村の若者たちと交流を深める。やがて満州での大農場経営計画を持ちかけ、縁者の令嬢との縁談を勧め、青年を翻弄する。本作は、素性の怪しい男が周囲を巻き込みながら繰り広げる騒動を描き、また村で生きる風来坊や米泥棒といった人々の不可思議で数奇な日常の断片を綴った短編集である。

犬田卯

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 23

伊田見男爵

伊田見男爵と名乗る優男が、村の一小学教師をたずねて、この牛久沼畔へ出現ましました。

男爵令嗣は「男爵」と単純に呼ばれることをなぜか非常によろこばれたということであるから、私もこれから、単にそう呼ぶことにしよう。で、閣下、いや、男爵は霞ヶ浦の一孤島――浮島にしばらく滞在されて、そこの村役場の書記某というものの紹介状をふところに、わが村の教師のところへやって来たのである。何の目的があって? それはおいおいと判明するであろうが、とにかく同僚の紹介――教師は以前その島に奉職していた――であるから、Mというその教師は、細々と書かれた紹介の言葉を読み終るや、

「さア、どうぞ……」と丁寧に、若き男爵閣下を客間に招じ、正座に据えたのであった。

男爵は粗末な袷・羽織を着流し、風呂敷包み一個を所持しているのみであった。(この話は初秋に起った)が、別にそうした風体を気にかけるでもなく、悠々迫らざる態度で、いかにも貴族らしい挨拶をするのであった。

「僕は全体、上流社会が嫌いでしてね。」

「いや、何といっても平民階級の中にいた方が、気がおけませんよ。」

男爵は、だから「画家」として世に立つべく修業し、写生旅行に、この風光明媚の沼岸へやって来たというのであった。

M教師は酒肴を出しつつ、

「はア、そうですか、この村には小川芋銭先生がおられますが、ご存じですか」

すると男爵は視線をあちこちさせて、

「小川……小川、先生……そう、あの方は帝展でしたな。有名な方ですな。」

「いや、院展の方で……」と正直なM教師は答えたが、相手が、

「あ、院展でしたな、そう、そう院展の……」

明らかに狼狽した返答に接すると、こいつは……と考えざるを得なかった。

雑談数刻、風呂がわいたという知らせに、男爵は、M教師の妻君から手拭を借りて風呂場へ立った。

その間に、M教師は弟のように可愛がっているという画家――美校出身の、そして芋銭先生の弟子であるところの――を呼びに、近くまで自転車を走らせたのであった。

「おいS、俺の家へ、いま男爵閣下がお見えになったんだ。いっしょに飲もう。」

「へえ、珍客だな、しかし何という男爵様なんだい。」

犬田卯の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本