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TORENDIA

流行唄

本文約5,800字 ・ 読了時間 約12分

あらすじ(AIが作成しました)

流行唄の定義や音楽的な性質について綴る。日本人の生活感情に根ざした情緒や親しみを持ち、日本語の語調を基礎とする流行唄は、西洋音楽の組織に基づく学校唱歌や国民歌謡とは根本的に異なる存在であると論じる。著者は、独自の音楽系統を持つ両者が日本人の生活の中に共存していくことの意義を説き、個人の感性に訴える流行唄の価値を肯定的に評価する。

兼常清佐

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🎧 流行唄 / 朗読音声: VOICEVOX:青山龍星

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「流行唄というのは一体どういうものでしょう。」――ギンザ或春の夜、剽軽な雑誌記者が私にそんなことを聞いた。

難問である。一口にそれに答える事はむずかしい。それに答えるにはギンザを四丁目からシンバシまでくらい歩かなければならない。ただ流行唄はどんなものでないかという事なら、私には五歩行く間に明瞭に答えられる。――流行唄はラジオの国民歌謡のようなものではない。

流行唄には気分と感情がある。やさしさがある。なつかしさがある。暖さがある。捉われないものがある。強いられないものがある。二十四時間の周期で必ず私共の耳にはいって来る規律的な、計画的な音楽などは、どうも流行唄という事からは縁が遠い。また私も国民歌謡が非常に流行しているという話を聞いた事がない。

シュトルムは『湖畔』の中にこう書いている。――「流行唄は作られるものではない。空から降って来て、陽炎のように地上を飛びまわる。彼処でも此処でも至る処で人々に唄われる。我々の事業も煩悶も流行唄の中に唄われている。結局我々が総がかりで流行唄を作り上げるようなものである。」

流行唄というのは正にこのようなものである。国民歌謡のようなものではない。

シュトルムが『湖畔』を書いてから百年の年月がたっている。今では流行唄もよほどその形を変えて来た。それはニッポンでも同じ事である。まず変ったところは作曲者や詩人がその存在を主張して来たことである。昔の流行唄も、もちろん誰か作った人があるに相違ない。『追分ぶし』も『キソぶし』も『リキューぶし』も作る人がなくては出来るわけはない。しかしその当時の社会では、それを作るという事が、その作った人の存在を主張するほどに値しなかったであろう。作った人も強いてその存在を主張しなかったであろう。それで今から見れば、そのような唄はいつともなく、誰の手からともなく、出来たもののように見える。ある地方の人々の間から全く自然に出来上ったもののように見える。ちょうど野に自然の花が咲き、森に自然の鳥が鳴くようなものに見える。

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