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TORENDIA

涼味数題

本文約4,600字 ・ 読了時間 約10分

あらすじ(AIが作成しました)

涼しさを瞬間の感覚と捉える筆者が、幼少期の記憶や自身の体験を交えながら、日本特有の涼しさの感性について論じる随筆。古来の日本人が培ったこの微妙な感覚は、国土の地理学的・気候学的な条件に根ざした産物であり、俳句などの文学に結実していると説く。また、涼しさを心の自由や風流という概念と結びつけ、生活や社会現象の端々に見られる「涼しい顔」といった人間模様についても考察を巡らせる。

寺田寅彦

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🎧 涼味数題 / 朗読音声: VOICEVOX:春日部つむぎ

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涼しさは瞬間の感覚である。持続すれば寒さに変わってしまう。そのせいでもあろうか、暑さや寒さの記憶に比べて涼しさの記憶はどうもいったいに希薄なように思われる。それはとにかく、過去の記憶の中から涼しさの標本を拾い出そうとしても、なかなか容易に思い出せない。そのわずかな標本の中で、最も古いのには次のようなものがある。

幼い時のことである。横浜であったか、神戸であったか、それすらはっきりしないが、とにかくそういう港町の宿屋に、両親に伴なわれてたった一晩泊まったその夜のことであったらしい。宿屋の二階の縁側にその時代にはまだ珍しい白いペンキ塗りの欄干があって、その下は中庭で樹木がこんもり茂っていた。その木々の葉が夕立にでも洗われたあとであったか、一面に水を含み、そのしずくの一滴ごとに二階の燈火が映じていた。あたりはしんとして静かな闇の中に、どこかでくつわ虫が鳴きしきっていた。そういう光景がかなりはっきり記憶に残っているが、その前後の事がらは全く消えてしまっている。ことによると夢であったかもしれないと思われるほどおぼつかない記憶である。この、それ自身にははなはだ平凡な光景を思い出すと、いつでも涼風が胸に満ちるような気がするのである。なぜだかわからない。こんな平凡な景色の記憶がこんなに鮮明に残っているには、何かわけがあったに相違ないが、そのわけはもう詮索する手づるがなくなってしまっている。

中学時代に友人二三人と小舟をこいで浦戸湾内を遊び回ったある日のことである。昼食時に桂浜へ上がって、豆腐を二三丁買って来て醤油をかけてむしゃむしゃ食った。その豆腐が、たぶん井戸にでもつけてあったのであろう、歯にしみるほど冷たかった。炎天に舟をこぎ回って咽喉がかわいていたためか、その豆腐が実に涼しさのかたまりのように思われた。

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