女心拾遺
本文約17,600字 ・ 読了時間 約36分
あらすじ(AIが作成しました)
唐沢周得は古稀に近い年齢ながら、女中のおしもに対する好意を隠そうとせず、若やいだ態度で周囲を困惑させる。妻の伊予子は夫の女性関係に長年苦しんできたが、かつての母と同様に夫の非行を庇い続けてきた。ある日、慶太郎は父宛てに届いたおしもからの情熱的な手紙を見つけ、母の前で読み上げる。夫の放蕩に振り回されながらも、息子にその姿を見せてしまった伊予子は、拭いようのない苦悩と空しさを抱き、自身の内に消えない暗い影を見出す。
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一
常は無駄口の尠い唐沢周得氏が、どうしたはずみか、この数日来妙に浮きたって、食事の間も駄洒落をとばしたりしては家人を笑わせたりする。もともと脂肪肥りの血色のよい膚が、こんな時には、磨きをかけたように艶光りして、血糸の綾がすけてみえる丸っこい鼻の頭には、陽ざしに明るい縁の障子が白く写っているように見える。前歯の綺麗に残っている口を大きく開けて、わっはっはっと身をもみながら高笑いをする仕草など、どうみても古稀に近い人とは思われず、この若やぎようを家人は奇異の眼ざしで眺めやるのだった。
唐沢製鋼所の社長としての繁忙な地位を、二年前から女婿の横尾氏に譲って、今は気楽な閑居の身でありながら、元来、動きまわることの好きな性分がこの老齢になっても納まらず、朝は従前通り九時きっかりに出社して、午すぎてから戻ってくる。これという用事が待っているわけではなく、ただ、永年の習慣から出社をしてみなくては気がすまないのである。自動車で送られて社長室へ顔をみせ新社長の相談に乗ってやったり、電話を取り次いでやったり、それから社内を一巡して自動車で帰って来る。いわば、この出社は老人にとっては一種の運動のようなものであった。それが、この頃では興がのって工場の方までも見廻るという調子である。
「そんなに御無理をなすっては、お体にさわりましょう」
老夫人の伊予子が宥めるようにこう云うのを、唐沢氏は大きく手を振って、
「なあに、これしきのこと。儂の体はまだ老耄れてやせんぞ」
と身をもんで、わっはっはっと高笑いをするのだった。