TRENDIA CLASSIC

馬車を待つ間

堀辰雄

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「やあ綺麗だなあ……」

埃りまみれの靴の紐をほどきながら、ひよいと顏を上げた私は、さう思はずひとりごとを言つた。

崖ばらに一かたまり、何んの花だか、赤やら白やら咲きみだれてゐるのが、夕闇を透かしながらくつきりと見えたのである。

「その躑躅でございませう? ――本當に今が見頃でございます……」

ひとりごとのやうに言つた私に、さう愛想よく答へたのは、一番末の妹らしい嬰兒をおぶつたまま私を出迎へてくれて、いま私の背後に立つてゐる、二十ぐらゐの素朴さうな娘だつたが、――即座に、これが友人の話の、と私は思つたけれど、その頃は私だつてそれと知つてその娘の顏を不躾けにまともから見られるやうなんぢやなかつた。……

「へえ、あれが躑躅!……」と私はさも感嘆したやうに言つた。

實際、躑躅なんて云ふ花は、東京の山ノ手線の停車場の崖ばらなどに散りぎは惡く何時までも咲いてゐる汚らしい奴ばかりだと思つて居たものだから、私にはその同じ花がこんなにも綺麗に咲くとはちよつと信じられない程だつた。――私はふと自分の身がいま邊鄙な山奧の温泉場にあることを思つた。さうしたら何んだか快いやうな切ない氣持になりだした。これがその旅愁と云ふものかしら。

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