本文へ移動
TORENDIA

X氏の手帳

本文約1,800字 ・ 読了時間 約4分

あらすじ(AIが作成しました)

酒場から泥酔して立ち去った青年が落とした黒皮の手帳を、巡査が拾い上げる。手帳には、創作の苦悩や自己の存在に対する不安、深夜の街を彷徨う孤独な日常、そして「午後十一時四十七分」という特定の時刻に宇宙の時間が停止するという不可解な体験が綴られている。手帳を読み進めるうちに、巡査は書き手の青年の精神状態が常軌を逸していると確信し、その異様な内面世界と現実との境界が混濁していく様子を描く。

堀辰雄

速度
🎧 X氏の手帳 / 朗読音声: VOICEVOX:春日部つむぎ

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 3

或る夜、或る酒場から一人の青年がふらふらしながら出て來た。彼は非常に泥醉してゐるやうに見えた。タクシイ! と彼は聲高に叫んだ。

一臺の汚らしいタクシイが止つた。彼はふらふらしながらそれへ乘つた。車はがたがた走り出した。それをちやうど巡中の巡査がやや離れた所から見てゐたのであつた。車が走り去つてしまふと、その跡に手帳のやうなものが落ちてゐるのを巡査は認めた。青年が落して行つたものらしかつた。そこまで歩いて行つて見ると、それはやはり黒皮の手帳だつた。巡査はそれを取り上げて、街燈の光りで、ところどころ讀んで行つた。

午前九時に

僕は眼をさますのだ

頭の中から夢が逃げてゆくのを見ながら

僕はすこし頭痛がする

僕は新聞を讀む

食慾増進劑として

それから僕はチュウリップのやうに食事をする

そしてそれを消化するため

再びベットの上に横になる

ブライヤアのパイプを吹かしながら

それは僕の掌をまるで小鳥のやうに温める

僕は漸く落着く

それから僕は机に向つて

猿が蚤を探すやうに

僕のインスピレエションを探す

僕はペンを取り上げる

…………

そこまで讀んでくると、巡査はぱらばらと頁をめくつたのである。

夜になつて

僕の部屋に一人でゐると

僕はあんまり僕になり過ぎるのだ

それは何といふ不安だ

僕は帽子をかぶつて

出かける

僕は一晩中歩く

僕はあんまり僕になり過ぎぬために

無茶苦茶に歩く

僕はしまひに疲勞する

そして疲勞が増加するにつれて

僕の鼻が病的に鋭敏になる

ゴムの匂がしたりゴミの匂がする

よい匂と悪い匂とはよく混らないものだ

時々たまらない匂がする

その度に僕は鼻孔を閉ぢる

數分間の窒息

僕は何よりも休息を求めなければならぬ

僕は近くの酒場に入つて

テエブルに突伏す

それはすぐ酒のしみとタバコの吸殼で道路のやうに汚れる

そして僕に無理に思ひ出させようとするのだ

僕をそんなにも疲勞させたその夜の道筋を

それが再び僕の疲勞を蘇らせる

それからもはや僕には分らない

僕の横になつてゐるのが

自働車のクッションの上であるか

それとも何處だか知らぬホテルのベットの上であるか

堀辰雄の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本