「……伊太利は好い效果を與へてくれましたけれど、こんどは私には北方が、空間が、風が必要になつたやうな氣がいたします……」と、一九〇四年四月二十九日、當時羅馬に滯在してキエルケゴオル、ヤコブセン等の作品を好んで讀んでゐたライネル・マリア・リルケはそのスカンヂナヴィア在住の女友達エレン・ケイに宛てて書いてゐる。エレン・ケイはルウ・アンドレアス・サロメ等と共にリルケの最初の知己たちの一人で、その頃既にスカンヂナヴィアの各地で、いまだ無名に近かつたこの若い詩人に就いて、講演などをして紹介に努めてゐたものである。そのお蔭で、瑞典や丁抹なんぞにも此の詩人を愛する人々が既にかなりの數に上つてゐたらしい。その人達からの熱心な招聘の手紙が、春の羅馬にあつてなんの爲事もなさずに怏々としてゐたリルケのもとに遂に屆いたのであつた。
羅馬の春の印象は概して芳しくなかつた。といふのは、羅馬では、市中は巴里以上に雜沓して居り、しかも季節がきびしい冬から突然目くるめくばかり百花の咲き亂れる夏に交代してしまふからである。
徐々に變革する事を好む詩人、――あらゆる困難に打克つて花咲くために戰ひ拔いてきた最初の小さな花々をこそ愛する此の詩人には、それが何よりも堪へ難かつたと見える。五月、羅馬を逃れるやうに去つたリルケは、アシジ、ピサ、ミラノ、デュセルドルフ等に短い滯在をしつつ、六月、スウエデンの片田舍なるボルゲビィ・ガアルといふ小さな町に著いて、其處のラルソン孃の許に寄寓した。それからその年の十二月まで、そのボルゲビィ・ガアルの他には、ヨンセレッド、コペンハアゲン等の友人の家々に逗留しつつ、その質朴な、愛すべき生活を共にしてゐた。
丁度二年前の夏の末(一九〇二年)巴里にはじめて足を踏み入れて以來、詩人を襲つた恐ろしいかずかずの經驗が、彼の裡に「マルテの手記」の重要なるモチイフとして生れたのは恐らく羅馬で、その著想は詩人がかうしてスカンヂナヴィアに氣儘な、愉しい、しかし殆ど無爲に近い日を過して居つた間に、漸く熟していつたのではあるまいか。