TRENDIA CLASSIC

詩人も計算する

堀辰雄

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「吾人の賞美する建築は、その建築家が目的によく副ふやうな手段を用ひて、その柱が、エレクションの麗はしき人像柱の如く、上にかかる重みを苦もなく輕々と支へてゐるやうな建築である。」

アンリ・ポアンカレ

さて、いま僕らの努力してゐるのは、詩を文學から引離すことである。文學はもはや手品師がクリストに似てるやうにしか詩に似てゐない。多くの人々は文學によつて手品によつての如くにだまされる。それが人々には面白いのである。しかしそれはもはや僕らをだまし得ない。だから僕にはすこしも興味がない。それに反して、詩は、その宗教的精神に酷似した詩的精神によつてクリストの行爲のやうに僕らを感動させる。今日の詩人の價値は、彼がクリストの如き神聖の無氣力と信仰とを持つてゐるか否かによつて決定されるといつてよい。

詩的精神とは如何なるものであるか。それは僕らに電流のやうにしか作用しないものである。(詩の非電導體の何と多いことか。)それが僕らに作用するや否や、僕らの感じだすものは、よき詩人も、よき科學者も、よき宗教家も、實にそれらの精神がその根本において一致してゐることである。この一致はどこからくるか。

科學者は何よりもまづ計算をする。そのやうに詩人も計算する。たとへば、一つの建築が僕らを感動させるのは、その外貌――それがいかに奇拔であつても――によつてではない。しかしその「重々しい輕さ」の感じ、それを組立てる骨格、その計算等によつてである。一つの奇蹟が、一つの詩が、僕らを感動させるのも、それとすこしも異らないことを解しなければならぬ。

詩人は夢なんか見てゐてはいけないのだ。

(初出時の表題は「詩的精神」。)

二つの計算法。その一つはスタンダアルの「赤と黒」のそれであり、他はドストエフスキイの「白痴」のそれである。

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