TRENDIA CLASSIC

「鎭魂曲」

堀辰雄

1 / 4

ハイネのロマンツェロなどは、數ヶ月の間に病苦と鬪ひながらも一氣に書き上げて、それをはじめから一卷として世に問うたものらしい。ああいふ慟哭的な詩などは一篇々々引きちぎつて讀まされるよりも、一卷として讀みとほすことによつて、我々の感動は別して強まるのである。その他、ヴェルレェンの「叡智」と云ひ、リルケの「時祷書」と云ひ、又コクトオの「プラン・シャン」と云ひ、さういふ連作體の詩としては最高度のものであらう。さういふ一卷をなさずともいい、せめて十篇位でいいから、さういふ連作體の詩の試みも若い詩人たちにやつて貰ひたいと僕は思ふのである。現代詩人の複雜な心情はもはや十行やそこいらの詩の中にははひり切らぬのならば、一篇々々としてはいくら物足らぬところがあつてもいい、それら數篇が相寄つて互に補ひ合ひながら、はじめて一心情を形成する、――さういふのが連作體の詩の特色である以上、野心的な詩人たちには小説などに手を出すよりは、ときどきさういふ詩作をもして貰ひたいのである。それは、海がその深みを加へれば加へるほどその青みを増すやうに、それらの詩を積み重ねれば重ねるほどその心情の凄みを増すやうなものであらしめたい。

又、野心ある詩人たちには時には長い詩も書いて貰ひたいものである。『四季』などでは、詩は大抵二頁位にきちんと收まつてゐる。ほとんど毎號々々がさうなのである。清潔ないい感じはするが、すこし几帳面すぎはしまいかと思ふ。ときどきは何頁めくつても、その詩がいつまでもいつまでも續いてゐる、――讀んでゆけばゆくほど、讀者の心は引き裂かれさうになり、或は云ひやうもなく靜まつてゆく、そんな詩が讀みたいものである。現代ではそんな詩をものすことはますます不可能に近くなつてゐる、――さういふ嘆きは誰もかも抱いてゐよう。それだけ、さういふ奇蹟のやうな詩の出現も、野心のある詩人たちには望みたいのである。

堀辰雄の他の作品