TRENDIA CLASSIC

二三の追憶

堀辰雄

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一高の頃のことを考へると、いまでもときをり逢ふことのある友達のことよりか、もうお逢ひできさうもない先生方のことがひとしほなつかしく思ひ出される。……

私になつかしい先生の一人は石川光春先生である。あのうすぐらい階段教室ではじめて先生の講義をきいたときは、植物學といふものが實に高尚な學問のやうにおもはれ、急に自分までが大人になつたやうな氣がした。いま考へてみると、それはむしろ私の子供じみた驚きのためだつたのだらう。それは例へば植物學といひながら聞き慣れた植物の名などひとつも出て來ず、細胞の圖などが獨逸語などで説明され、そんななかに突然ゲエテの「色彩論」の學説が紹介されたりしたためだつたやうだ。が、また一つには石川先生の飄然とした風格のある講義ぶりにもよつたのである。他の學科ではそれほど新らしい學問に對する驚異のやうなものは持てなかつたのである。それで今でも、古本漁りなどをしてゐて、ときをりストラスブルガアの植物學の本などが目につくと何か異樣な戰慄を覺える。一高にはひり立ての頃、ああいふ立派な本を買つて勉強してみたいと思つたこともあつたが、別に自分は植物學を專攻するつもりもなかつたので、道樂の本にしては學生の身には少し高價すぎて手が出なかつたのである。まあ今なら買はうと思へば買へないこともないので、氣まぐれにそれを手にとつて、よつぽど買つてやらうかといふ氣になりかけては、しばらくその本を撫でまはしながら細胞の插繪などを見てゐるうち、矢つ張りそんな勇氣がなくなつてしまふ。

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