TRENDIA CLASSIC

春淺き日に

堀辰雄

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二三日前の或る温かなぽかぽかするやうな午後、僕はうかうかと三宅坂から赤坂見付まで歩いてしまつた。あそこの通りは前から好きだつたが、そんな風にぶらぶら歩いたのは實に何年ぶりかだつた。僕は青山にゐる友人の家を訪問する途中だつたが、三宅坂でいくら待つてゐてもバスが來ないし、それにいかにも春先きらしい氣持ちのいい天氣だつたので、あとで疲れるとは思つたけれど、ついうかうかと歩きだしてしまつたのである。一つはひさしく通つたことのないそのへんをちよつと歩いて見たいやうな氣がしたからでもある。……

僕はごく小さい時分に一度母に連れられてこの近くの豐川稲荷までお詣りにきたことがあつた。(僕の母はときどきそこへお詣りをしてゐた。)そのとき僕の母は電車の窓から丁度このへんの或る小路を指して、あそこでお前が生れたのだと幼い僕に教へてくれたのであつた。この通りが何んとなく僕になつかしくなつたのは既にその時分かららしい。僕はいまはもうその小路がどれだつたのかすらてんで分らない。しかし分らないなりに、この近所は割合に昔のままになつてゐるやうに思へるので、ひよつとしたら僕の生れた家もどこやらそつくりそのまま殘つてゐさうな氣がされてならぬ……。

で、その午後も僕はその通りをぶらぶら歩きながら、何氣なしに、しかし一軒一軒に目をやつてゐたものと見える。そのうちに或る一軒の古びた洋館が僕の目にはひつた。そこの窓には明治時代風な鎧扉が深く閉ざされてゐた。そして枯れた蔦のからんだその表札には下手な日本字で「マリ・マラレ」と横に書かれてあつた。僕にはそんな外國人の名前までもなつかしいやうな氣がした。

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