TRENDIA CLASSIC
春淺き日に
堀辰雄
1 / 3
二三日前の或る温かなぽかぽかするやうな午後、僕はうかうかと三宅坂から赤坂見付まで歩いてしまつた。あそこの通りは前から好きだつたが、そんな風にぶらぶら歩いたのは實に何年ぶりかだつた。僕は青山にゐる友人の家を訪問する途中だつたが、三宅坂でいくら待つてゐてもバスが來ないし、それにいかにも春先きらしい氣持ちのいい天氣だつたので、あとで疲れるとは思つたけれど、ついうかうかと歩きだしてしまつたのである。一つはひさしく通つたことのないそのへんをちよつと歩いて見たいやうな氣がしたからでもある。……
僕はごく小さい時分に一度母に連れられてこの近くの豐川稲荷までお詣りにきたことがあつた。(僕の母はときどきそこへお詣りをしてゐた。)そのとき僕の母は電車の窓から丁度このへんの或る小路を指して、あそこでお前が生れたのだと幼い僕に教へてくれたのであつた。この通りが何んとなく僕になつかしくなつたのは既にその時分かららしい。僕はいまはもうその小路がどれだつたのかすらてんで分らない。しかし分らないなりに、この近所は割合に昔のままになつてゐるやうに思へるので、ひよつとしたら僕の生れた家もどこやらそつくりそのまま殘つてゐさうな氣がされてならぬ……。
で、その午後も僕はその通りをぶらぶら歩きながら、何氣なしに、しかし一軒一軒に目をやつてゐたものと見える。そのうちに或る一軒の古びた洋館が僕の目にはひつた。そこの窓には明治時代風な鎧扉が深く閉ざされてゐた。そして枯れた蔦のからんだその表札には下手な日本字で「マリ・マラレ」と横に書かれてあつた。僕にはそんな外國人の名前までもなつかしいやうな氣がした。
堀辰雄の他の作品
TRENDIA CLASSIC
(きのふプルウ
ストの……)
堀辰雄
(きのふプルウストの……)
堀辰雄 ・ 約1分
TRENDIA CLASSIC
狐の手套〈小序
〉
堀辰雄
狐の手套〈小序〉
堀辰雄 ・ 約1分
TRENDIA CLASSIC
端書
堀辰雄
端書
堀辰雄 ・ 約3分
TRENDIA CLASSIC
ノワイユ伯爵夫
人
堀辰雄
ノワイユ伯爵夫人
堀辰雄 ・ 約6分
TRENDIA CLASSIC
「馬車」
堀辰雄
「馬車」
堀辰雄 ・ 約1分
TRENDIA CLASSIC
モオリス・ド・
ゲランと姉ユウ
ジェニイ
堀辰雄
モオリス・ド・ゲランと姉ユウジェニイ
堀辰雄 ・ 約12分
TRENDIA CLASSIC
行く春の記
堀辰雄
行く春の記
堀辰雄 ・ 約1分
TRENDIA CLASSIC
あひびき
堀辰雄
あひびき
堀辰雄
TRENDIA CLASSIC
あいびき
堀辰雄
あいびき
堀辰雄
TRENDIA CLASSIC
Ein Zwe
i Drei
堀辰雄
Ein Zwei Drei
堀辰雄
TRENDIA CLASSIC
「青猫」につい
て
堀辰雄
「青猫」について
堀辰雄
TRENDIA CLASSIC
曠野
堀辰雄
曠野
堀辰雄