「文藝林泉」は室生さんの最近の隨筆集である。が、讀後、何かしらん一篇の長篇小説を讀んだやうな後味が殘る。「京洛日記」や「馬込林泉記」や「いつを昔の記」などの小品風なものばかりではなく、「文藝雜記」などのやうなものさへ、さながら小説を讀んでゐるやうな氣持を起させるのだ。そこに室生さんの隨筆の妙味がある。そして私は讀後しばらくしてから、自分がそんな雜記のやうなものにまで小説らしいものを感じさせられたのは、この本そのものの影響であることに氣づいたのだ。室生さんは芭蕉や一茶の發句のやうなものからすら、いつも小説らしいものを嗅ぎだされてゐる。そしてさういふものを大層好まれてゐる。逆に小説そのものにかへつて小説らしくないものを求められる位にまで、さういふものを好まれてゐる。私自身はこの頃どちらかといふと、小説はやはり小説らしいものが好いのぢやないかといふ考へに傾き出してゐるが、そんな私までがこの本を讀んでゐるうちにいつか室生さん流になり、この隨筆集から小説らしいものを感ぜさせられてゐる。それほどこの本に親しめたことは、私にとつては何よりも氣持がよいのだ。
「京洛日記」は、この冬京都にラヂオの放送に行かれた折、寺院や庭を見てまはられた日記である。それらの庭々の冬ざれの樣子が、巧みに配された人事と相俟つて、たいへん興趣深く語られてゐる。蝕ばんでぼろぼろになつた板廊下だの、土塀の瓦や杉苔の色までがくつきりと目に浮んでくる。が、それと一緒に、明け方の京都の町を走つてゐる放送局の自動車のなかで、講演原稿を大きな聲で復習してゐる室生さんの寒さうな姿が、甚だ印象的である。
そのなかの「龍安寺」の章を讀みながら、この庭が芥川さんの最も愛されてゐた庭だつたのを私は思ひ出した。室生さんも「ひよつとすると龍安寺などがこんど見て來た庭のうちで最も心に殘つて澄み切つてゐるのではないかと思つた」と言はれて、その「京洛日記」を結ばれてゐる。