妖魔の辻占
本文約15,700字 ・ 読了時間 約32分
あらすじ(AIが作成しました)
文政初年の京都、比野大納言の館で、護摩の修法を終えた資治卿を迎えに現れた藤の局の前に、抜刀した狂気の武士が立ちはだかる。局は冷静に言葉をかけ、手を取って邸外へと誘導する。その後、江戸城での紙屑買を巡る騒動や、山伏と小法師が箱根の関所を越える不可解な出来事が語られる。本作は、現実と妖異が交錯する中で展開する人々の不思議な足跡を描く。
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一
伝へ聞く……文政初年の事である。将軍家の栄耀其極に達して、武家の代は、将に一転機を劃せんとした時期だと言ふ。
京都に於て、当時第一の名門であつた、比野大納言資治卿(仮)の御館の内に、一日偶と人妖に斉しい奇怪なる事が起つた。
其の年、霜月十日は、予て深く思召し立つ事があつて、大納言卿、私ならぬ祈願のため、御館の密室に籠つて、護摩の法を修せられた、其の結願の日であつた。冬の日は分けて短いが、まだ雪洞の入らない、日暮方と云ふのに、滞りなく式が果てた。多日の精進潔斎である。世話に云ふ精進落で、其辺は人情に変りはない。久しぶりにて御休息のため、お奥に於て、厚き心構の夕餉の支度が出来た。
其処で、御簾中が、奥へ御入りある資治卿を迎のため、南御殿の入口までお立出に成る。御前を間三間ばかりを隔つて其の御先払として、袿、紅の袴で、裾を長く曳いて、静々と唯一人、折から菊、朱葉の長廊下を渡つて来たのは藤の局であつた。
此の局は、聞えた美女で、年紀が丁ど三十三、比野の御簾中と同年であつた。半月ばかり、身にいたはりがあつて、勤を引いて引籠つて居たのが、此の日修法ほどき、満願の御二方の心祝の座に列するため、久しぶりで髪容を整へたのである。畳廊下に影がさして、艶麗に、然も軟々と、姿は黒髪とともに撓つて見える。
背後に……たとへば白菊と称ふる御厨子の裡から、天女の抜出でたありさまなのは、貴に気高い御簾中である。
作者は、委しく知らないが、此は事実ださうである。他に女の童の影もない。比野卿の御館の裡に、此の時卿を迎ふるのは、唯此の方たちのみであつた。
また、修法の間から、脇廊下を此方へ参らるゝ資治卿の方は、佩刀を持つ扈従もなしに、唯一人なのである。御家風か質素か知らない。此の頃の恁うした場合の、江戸の将軍家――までもない、諸侯の大奥と表の容体に比較して見るが可い。
で、藤の局の手で、隔てのお襖をスツと開ける。……其処で、卿と御簾中が、一所にお奥へと云ふ寸法であつた。