身についたもの
本文約2,200字 ・ 読了時間 約5分
あらすじ(AIが作成しました)
十代で習得した琴や掃除といった技能が、長年離れていても身体に根付いていると著者は説く。一方で、生活の中で身につかなかった料理への悔いや、幼少期から読み耽った聖書が教養として心の奥底に沈殿している様子を綴る。物事に慣れ親しむという行為が、人の内面にどのような力を蓄え、不意の瞬間に知識や記憶として表出するかを、日常生活の回想を通して描く随筆である。
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M夫人は私たち十二三の時からの学校友達で、むかしも今も親しくしてゐるが、彼女は実家も婚家も非常に裕福なので趣味としての諸芸に達して、殊にお茶や歌では趣味以上のくろうとである。その彼女がある時言つた。「私はずゐぶんいろいろなお稽古ごとをやつてみましたけれど、何といつても、十代の時習つたものが一ばん身についてゐますね、それはお琴。家庭の人となつて琴なんぞ弾いてゐる時間もなく、何年となく捨てつぱなしにしてゐても、ちよつとお浚ひをすればすぐ思ひ出して昔の通りに出来ますものね。中年で習つたものは一生けんめい念を入れて今までやり続けてゐても、まだ本当に身についてはゐないやうです……。」彼女のやうな静かな心構への人がいふ事で、それは本当だと思ふ。私は小学生の年から女学校の寄宿舎にはいつてゐて、大きくなると(十四五から)自分の部屋のお掃除を習はせられた。それから十六位からは、外人教師のお部屋と西洋応接間の掃除をした。一週に一度づつは足袋や肌着の洗濯もしなければならなかつた。こんな年になつても割合にらくな気持で掃除や洗濯ができるのは、十代でおぼえた仕事が、芸ではないが、身についてゐるのであらう。
それに比べると、卒業前一年位は一週間に三度賄ひの手伝ひに行つてお惣菜の煮物をしてみたり、一週に一度づつ先生がたの洋風料理のお手伝ひもした。しかし、料理の才能がないのか、あるひは大急ぎのつけ焼刃であつたか、私はとても料理が下手で、自分の手でめんどうなお料理をこしらへてたべる愉しみを知らない。しよせんは主婦としての資格に落第であるが、これはその道の好ききらひとか、手が不器用とかいふばかりでなく、主婦生活の殆ど一生のうち、明治大正、昭和の戦争が始まるまでの長い月日を人まかせにしても御飯をたべてゐられたからでもある。今になつて自分自身の手で何ひとつ器用に出来ないのを後悔しても、もう遅すぎる。