過去となつたアイルランド文学
本文約3,800字 ・ 読了時間 約8分
あらすじ(AIが作成しました)
戦後の荒廃した生活を送る著者が、馬込の家から取り戻したかつての愛読書を読み返し、アイルランド文学への郷愁と自らの境遇を重ねて綴る随筆。かつて心酔した文芸復興運動の作家たちの作品に触れつつ、伝説の中の豊かな生活と敗戦後の侘しい現状を対比し、かつての文学熱への回顧を記す。また、ジェイムズ・ジョイスの戯曲論や、伝説的な英雄譚を現代の視点から読み解くことで、過ぎ去った時代への想いと喪失感、そして変わらぬ文学への関心を淡々と描写する。
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今はもう昔のこと、イエーツは一九二三年にノーベル文学賞をもらつた時の感想を書いてゐる――その時私の心にはここにゐない二人のことが考へられた。遠い故郷にただ一人で寂しく暮らしてゐる老婦人と、わかくて死んだもう一人の友と――。グレゴリイ夫人とシングとはイエーツと共にアイルランドの文芸運動を起した中心の人たちであるから、イエーツはいま自分が貰ふノーベル賞は三人が共に受けるべきものと思つたのであらう。その後グレゴリイ夫人も死に、イエーツも今度の戦争中に亡くなつてアイルランドの文芸復興運動も花が咲いて散るやうに遠い過去のペイジとなつた。あんなにシングのものを愛してゐた私一人の身に考へてみても、アイルランド物をよまないで長い月日が過ぎてゐた。
すばらしい展覧会を見てその会場を通りぬけたもののやうに長時間その文学の中に浸つてゐた私が、或るときその中を通り抜けたきりもう一度その中にはいらうとしなかつた。人間の心はきりなしに動いてゆくからきつと私は倦きてしまつたのであらう。それに怠けものでもあるから、学者が研究するやうに一つの事に没頭することも出来なくてアイルランド文学に対してはすまないことながらついに私は展覧会を出てゆく人のやうに出たきりになつたのである。