鮟鱇一夕話
本文約1,700字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
熱海の福島慶子が友人から贈られた偽の鮟鱇を巡る逸話を通じ、日本料理における味覚の真髄と、経験不足による知識の齟齬を論じる。著者は鮟鱇という魚の部位ごとの価値や正しい食し方を解説し、単なる肉の価値にとらわれることへの疑問を呈する。食の専門家としての自負に基づき、異文化的な視点からの日本料理解釈に対する苦言と、真の日本料理への理解を深めることの重要性を説く。
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獅子文六氏との対談で、熱海の福島慶子女史は「アメリカのパン、あんなもの問題じゃない。金魚の餌でしょう」とタンカを切っておられたが、その味覚識見はさすが見上げたものだ。そうはっきりいってのけられるだけのパン食通は、ざらにあるものではない。「うちの親爺(夫君のこと)はタマネギや肉の一杯はいっているオムレツが大好きなのよ」と田舎者扱いするところなど、女史もなかなか隅におけないおひとだ。
ところで、このわたしは、幼年時代から七十年の長期に渉って、日本料理を研究し続けているので、普通人とは少しばかり違うなにかを持っている。さて、そのうぬぼれで女史の日本料理観を随筆から探ると、まるっきり外人の日本料理観としか受け取れない。憶えざかりを十三年、日本を留守にしたひとのことであるから無理もないが、それにしても経験の浅さが、なに恐れるところなく筆を走らせているかのようだ。元来日本のことは何事によらずむずかしいことであるが、とりわけ美術と料理はむずかしく、位人臣をきわめたとて、美術と料理は分りにくいようである。その難問題をいとも簡単に勘所を掴んで説き起こし、説き去られるということは女史の聡明さを証明するものであろう。欲をいえば、今少し急がず落ち着き払って経験を積まれたら、味覚界で末恐ろしいひとになるのではないかと思っている。だが、熱海でのわにの話のようなものは、猿も樹から落ちる譬えのように福島女史の図らざりし不覚であろう。
女史がKさんというわに屋からもらったという偽あんこうの件はまったく外人的で、あんこうに対する彼女の無知、無経験が生んだナンセンス。おかしくておかしくて、その無邪気さに一時笑いがとまらなかった。
偽あんこうを贈ったKさんは、もとよりわにのつもりで女史の不在中においていったらしい。Kさんはわにの死肉だけを一片持って、相手をたぶらかさんものとなめてかかり、彼女も一応ひっかかってしまったのであるからおもしろい。「そのひとを知らんと欲せば、まずその友を見よ」というところである。