鮎の試食時代
本文約1,200字 ・ 読了時間 約3分
あらすじ(AIが作成しました)
貧乏書生時代に抱いた鮎への憧憬から始まり、日光の大谷川で食した初体験の違和感、そして京都の保津川や嵐山で味わった本物の旨味に対する探求心を描く。著者が三十歳前後で帰省した際、京都の料亭を巡り歩き、生きた鮎を幾度も食べ比べることで、ようやくその真の味覚を心底から納得するに至るまでを綴る随筆である。
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あゆがうまいという話は、味覚にあこがれを持ちながら、自由に食うことのできない貧乏書生などにとっては、絶えざる憧憬の的である。わたしも青年の頃、ご多分に漏れず、あゆを心ゆくまで食いたいと夢にまでみた時代があった。この夢を実現したのは二十四、五歳のころであったろうか。もちろんそれまでにあゆを全く口にしなかったわけではない。だが、あゆ通の喜ぶ上等のあゆによって、あゆの美味をテストするという意気込みで食ったのは、その時が初めてであった。わたしは日光の大谷川のあゆをねらっていた。おそらく大谷川のあゆがうまいということをいつとはなしに聞いていたのだろう。わざわざ日光までなけなしの金を懐にして出かけて行ったのである。
その時の価がなんでも一尾五、六十銭ぐらいであったと記憶している。それを二尾ばかり食ってみた。あゆは新鮮だし、色つやもよく、容姿も優れていて確かに一等級のものであったらしい。が、この時の偽らざる感じをいえば、うまいうまいとひとはいうが、なんだってこんなものが本当にそんなに美味なのかしら、というのが本音で、当時青年のわたしの味覚にはどうしてもしっくり得心がいかなかった。そうしてこの時以来、あゆの味はいよいよ真剣な宿題として残されたのである。
その後しばらくしてうまいと思って食ったのは、京都の保津川のほとりにおいてであった。洛西嵐山の渡月橋を渡って、山の裾を七、八丁登ると、そこに嵐山温泉というのがある。ここで食ったあゆこそはなるほどと得心がいった。まったくうまいと思って食った。いつのころかはっきり憶えぬが、なんでも好況時代の絶頂に達したころででもあったろうか。ここのあゆは一尾五円を通常の値段としていたそうだ。
織物で京都屈指の名家たる今出川堀川の北川の主人某が、かつてわたしに向かい、「京都であゆを食えば、まず通常は二円で立派なものが食えますね。ところが、嵐山に行って食うと一尾五円は出さなあきまへん。京都広しといえども、五円のあゆを嵐山まで食いに出かけるものは、京都人にもまずおらへんやろ」と、いうのである。