菊池さんのおもひで
本文約2,200字 ・ 読了時間 約5分
あらすじ(AIが作成しました)
時事新報の記者であった菊池寛が大森の自宅へインタビューに訪れたことを端緒に、著者は長年にわたる親交を綴る。若き日の菊池が抱いた洋行への夢や文学活動を通じた交流、そして出版の際に受けた親身な助言の数々を回想する。さらに、執筆中の小説の細部を尋ねる気さくな姿や、その後の仕事を通じた折々の対面を振り返る。往時を懐かしみ、誰に対しても寛大で親切であった菊池の温かい人柄と、その縁に対する深い感謝の念を記す。
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菊池寛さんが「忠直卿行状記」を書かれるより少し前だつたと思ふ、時事新報の文芸記者として、或る日私の大森の家にインタビューに来られた、ある日ではなく、或る夜だつた。アイルランド物の翻訳に私が夢中になつてゐる時分で、私の訳したものについて何か書いて下さるためだつた。電話もなく突然だつたので、ずゐぶんあわてた。ちやうど夕飯がすんだところで、その日はスキヤキをしたから家じう玄関の方まで葱の煮えたにほひが漂つてゐるらしいのをひどく恥づかしく思つた。スキヤキを食べたといつて恥ぢなくてもよいわけだけれど、私は葱のにほひがきらひで、いつもスキヤキの御馳走を歓迎しなかつた。しかし菊池さんのインタビューと片山のうちの夕飯とは何の関係もないことだから、まづ応接間に請じてお互に十年の友達のやうに話し合つた。菊池さんも大学の時分はたいそうアイルランド文学に興味を持たれて「新思潮」に戯曲の解説なぞ書かれた。その夜の話もむろんその方面の事で、どんな事を私が言つたか、長い時間の経つた今は何もおぼえてゐない、いろいろな話のあとで、取りとまらない事ばかり申上げましたが、どうぞ上手にお書きになつてと私が言ふと「いいです、うまく書きます」と愛想よく言はれた。菊池さんはその頃も、あとで偉くなられてからと同じ素朴なやうな豪放のやうな、そして大へんギヤラントな人柄であつた。一生を通じてあの方はいつも親切な、気持よく人の世話をする兄さんぶりで、それにいつも若々しい好奇心をいつぱい持つてをられる人だつた。
「奥さんは以前洋行されたんじやないですか?」といふやうなことから「私はひどく無精ですから、船に乗つたりして何処へゆく気もしません」と言ふと「僕は行つて来たいですね、ちよつとでよろしい、半年ぐらゐでも。僕たちの洋行は五千円もあれば、パリからロンドンまで行けますね。足りなくなつたらパリから帰つてくれば、それでもいいんです」とそれを愉しい夢のやうに言はれた。わかいその日の文学者はほんとうにその五千円を欲しいと思つてをられたやうだ。