Y氏が山手線電車の中で集団掏摸のためにポケツトの中をみんな奪られて帰つて来た。その日Y氏夫妻は帝劇の「モルガンお雪」を観ることになつてゐて、Y氏の切符はポケツトの中のほかの物と一しよに掏摸の手に渡り、奥さんの切符は無事に家に残つてゐた。一人でも行つて観て来たらとY氏は言つたが、奥さんは掏摸と並んで芝居を見ることになるかもしれないから止めると言つた。掏摸はそんな切符は帝劇の入口あたりで誰かに売つてしまふだらうから、奥さんの隣りに腰かける人は掏摸とは何も関係のないよその人だらうよとY氏が言つた。けれど切符を見た拍子に掏摸の一人が急に「モルガンお雪」をみる気になるかもしれないし、だいいち自分の隣りの人が掏摸だか唯のしろうとだか、どつちとも分らないあやふやの気持で芝居をみるのはたまらないと言つて彼女はゆくのを止めた。
ちやうどそこへ私が行きあはせて「いかが? 気味がお悪くなければ、夕方からですから、行つて御らんにならない?」と言はれたけれど、私もさういふ事にかけてはひどく弱虫だから、その一枚の切符はたうとう無駄にして、その代りゆつくりお茶を飲んで災難の話をきいた。この前にもY氏はやはり山手電車で掏られた、その時は服の胸のところを刃物で幾すじも切られて紙入をとられたが、その日は紙入の中が寒かつたから、専門家は骨折損をしたわけであつた。彼が肥つて背が高いので、お金を持つてるやうな錯覚を相手にもたせたのだらうと言つてゐた。その時は少しも知らないで掏られてしまつたからたぶん一人の仕事と思はれるが今度のは初めからよく分つてゐたさうで、隣席に一人が腰かけ、一人がかぶさるやうに前の吊革にぶらさがり、もう一人大きな男が出口にとほせんぼをして立つてゐたさうである。新聞に出てゐる話でも、集団掏摸では絶対に逃げられないといふことである。