念仏の家
本文約8,200字 ・ 読了時間 約17分
あらすじ(AIが作成しました)
越中の水橋にある旧家を訪れた主人公は、長年疎遠だった親族や知人たちとの再会を通じ、家々に根付く因果応報を信じる盲目的な信仰心や、陰鬱な生活環境がもたらす悲劇的な現実に直面する。かつての縁談相手の死や、病に伏す当主、代々受け継がれる念仏の声に象徴される家風の重圧を目の当たりにした主人公は、死と隣り合わせの閉鎖的な土地のあり方に複雑な哀感を抱き、生まれ故郷の富山へと戻る。
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一
私の家の祖先は、越中の国水橋といふ小さな漁村の生れであつた。
「有磯の海」といふのである。枕の草紙に、「渡りはしかすがの渡、こりずまの渡、みづはしの渡」とある。その水橋である。文治二年正月末、源義経主従十七人が山伏の姿となつて奥州へ落去の途次、京都堀川を忍び出て、越前に入り、安宅の関をすぎ、倶利伽羅峠をこえて、越中に入り、水橋川を渡つた――といふ史話がある。鎌倉時代、富山城より二十四年おくれて、小さな城が築かれ、天正六年に姉崎和泉守が、水橋城で討死してから廃城した――と伝へられてゐる。
明治十一年――明治天皇が北国御巡幸の際、九月三十日午前十一時五十分、鹵簿粛々として東水橋町に御着輦になり、慮瀬といふ旧家に御座所を設けたが、その時の行列は八百三十五人、乗馬は百十五頭で、天地開闢以来曾てない壮観を極めた――と郷土小史に書きのこしてある。その水橋である。短歌俳句の愛好家が多く、芭蕉の像を祀つて運座の会が開かれたりすることは、富山市と変りがなく、私の父もその水橋の旧家に生れた一粒種の青年であつた。土地柄売薬を業としてゐたが、明治十一年ごろ富山市に移り、前田藩の士族で、祖父は町奉行、父は和歌俳諧の先生をして御殿に使へた浅野家の娘(私の母)を嫁に貰つた。悠長な士族の家に育つて、遊芸三昧に日を暮らした私の母は、商家の家風とは何事も合はず、姑に苛られて、年中出るの入るの騒ぎをしてゐたのである。