イエスキリストの友誼
本文約8,600字 ・ 読了時間 約18分
あらすじ(AIが作成しました)
人間は社会的動物であり、友を求め交わることで生存する。新渡戸稲造は本作で、キリストが弟子たちを僕ではなく友と呼んだことに触れ、魂の結びつきによる愛こそが真の友誼であると論じる。他人の過去や痛みに同情し、その人格を深く尊ぶこと、また目に見えない霊的な交わりを通して失った友を偲ぶことの大切さを説き、真の友誼のあり方について講演を行う。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
私はちと所要あって田舎の方へ参っていたが今日この席に立て標題のようなお話しをするようにとのこと、この日に限って御無沙汰するのも何だか気持がわるいし、またこの日を撰で友を避けるというのも四十八ヶ年以来の習慣方度に背く。これゃ一つ参らねばなるまいといよいよ決心の臍を固めて今朝田舎を後に都上りを致したようなわけである。こう申すと何だか皆様に恩を着せるようだがあまり有難いなどと思われては困る。なあに参りは参っても肝心のお話は極々つまらない面白くないものだからただ此処までやってきた私の厚意だけを汲みとってもらえばそれでもう沢山である。(笑声起る)
さてただ今お話しようというのは「エスキリストの友誼」ということであるが、これは何も私が勝手に撰だわけのものではなく役員の方で撰出せられたものである。が多少これに就て感ぜないというわけでもない。一体宗教家などいうものは専門的のものでも何でもないのだから宗教家には常識が欠けていてはならぬ。元来宗教その物がコムモンセンスのもので決してセンモンセンスのものでないのだ(大笑声起る)。常識で普通一般の人が知悉していることが宗教で決して格段に目新らしいものではない、非常に珍らしい珍奇なことをいう宗教家こそかえって非常に怪しい怪物なんだ。