兵隊の宿
本文約22,100字 ・ 読了時間 約45分
あらすじ(AIが作成しました)
若女将のお光は、東京に住む画家・小池との再会を期して大阪へ向かおうとするが、六日の夜に突然兵隊の宿泊を受け入れることになり、計画が阻まれる。旦那の浅ましさに辟易しつつ小池への思慕を募らせるお光は、眠れぬ夜を過ごす。翌朝、兵隊たちは去り、お光は彼らの姿を演習行軍の記事として新聞に見る。自身の逢瀬を妨げた兵隊たちを、結果的に旦那との関係から救ってくれた恩人と感じつつ、小池からの連絡を待ちわびる。
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一
坂の上の、大きな松の樹のある村總代の家で、あるきを呼ぶ太鼓の音が、ドーン、ドーン、ドン/\/\/\/\と響いてゐたのは、ツイ先刻のことであつたが、あるきの猪之介は、今のツそりと店へ入つて來て、薄暗い臺所の方を覗き込みながら、ヒヨロ高い身體を棒杭のやうに土間の眞ん中に突ツ立てゝゐる。
店には誰れもゐないで、大きな眞鍮の火鉢が、人々の手摺れで磨きあげられたやうに、縁のところをピカ/\光らして、人間ならば大胡坐をかいたといふ風に、ドツシリと疊を凹ましてゐる。
「猪のはん、何んぞ用だツか。」と、若女將のお光は、物の香や酒の香の染み込んだらしい、醤油のやうな色をした竹格子の奧の板場から聲をかけた。
「あゝお光つあん、其處だツか。……お母んが留守で忙しおまツしやろ。」
鼻をひこつかせるやうにして、猪之介は竹格子の間に白く浮き出してゐるお光の顏らしいものを、目脂の一杯に溜つた眼で見詰めた。
「お母アはんの居やはれへんとこへ、役場からあんなこというて來やはるよつて、ほんまに難儀や。」
晝食の客に出した二人前の膳部の喰べ殼の半ば片付いた殘りを、丁ど下の川端の洗ひ場で莖漬けにする菜を洗ひ上げて來た下女に讓つて、お光は板場からクルリと臺所へはり、其處の岩乘な縁の廣い長火鉢の前に腰をかけた。
一番ではあるが、際立つて小振りの丸髷に裏葉色の手絡をかけて、ジミな縞物の袷せのコブコブした黒繻子の襟の間から、白く細い頸筋が、引ツ張れば拔け出しさうなお女郎人形のやうに、優しく婀娜かしかつた。
すらりとした撫で肩を一寸搖つて、青い襷を外してから、何心なく火鉢に手をやつて、赤味の勝つた細い比翼指輪の光る、華奢な指に握らせるには痛々しいと思はれるほどの、太い鐵作りの火箸を取り上げた。
かういふ時にタバコを喫まぬのは、彼女の態度風采を調へる上の一つの大きな疵とも思はれた。襷を外してから、長火鉢の前で、輕く長煙管を取り上げて貰ひたいと思はれた。
「お前、タバコ呑んだら何うやな。キセロと煙草入れわしが一つ大阪で買うて來てやるがな。」