本文へ移動
TORENDIA

ある完全犯罪人の手記

本文約8,600字 ・ 読了時間 約18分

あらすじ(AIが作成しました)

かつて完全犯罪を遂行したと自負する男は、座敷牢であった土蔵の二階に身を潜めていた。ある日、殺害したはずの男の息子が現れ、父の怨みを晴らすと宣言する。動揺する男は、過去の記憶と贖罪の念に苛まれながら、自身の出生にまつわる忌まわしい秘密や犯した罪と対峙する。男は自らの犯行の証拠を見つけられ、追いつめられた末に、自身の運命を神の裁断に委ねるべく手記を残して自死を決意する。

酒井嘉七

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 13

○月 ○日

私はいつものように、まだ川の面や町全体に深い靄のかかっているうちに朝の散歩を急いだ。人に顔を見られることを、これほど嫌うようになったのも、精神的な病気が昂進しているためであろう。平静に思索することが可能なのは、このミルクの海を泳いでいるような、深い靄の中の散策をつづけている十数分数十分のうちに過ぎない。それとても、突然として白い幕の中から現われる思いがけない人の姿によって破られてしまうことが多い。

自分が好きこのんで住んでいるとはいえ、あの、かつては座敷牢であったことに疑いのない、倉の二階にいる間は、(現在もう肉体の病苦からは逃れているものの)何故か、頭の中の歯車の一つがたえず不規則に動き廻り、私を狂わせずにはおかないと、猛威をふるう。

今朝いつもよりは少し早く、微風にのって静かに流れて行く靄の潮流に流されながら、平静な楽しい散歩をつづけていた。と古い石橋を渡った散髪屋の角で、出合いがしらに誰かとぶ付かりそうになった。何時ものように、私は面をさげて対手に道をゆずった。すると向うもまた私の避けた方へ歩を移す。自分は立ち止った。すると先の男も立ち止る。その動作に何かしらわざとらしさを感じた。思わず見上げると、自分を見下してゐる相手の険しい目と視線が合った。自分は思わず、あッと低く叫んだ。

○月 ○日

私が病魔に屈して幾度か死を選んだ時、病魔の陰から顔を出し、満足げに嘲笑った男、その男こそ私が数日前、靄の中の散策に町角で出逢った人物である。

私は前にも記したように、朝の散歩の時間において、もっとも平静に思考しうる。言葉をかえて云えば、精神的にもっとも平静である。従ってあの時に逢った男、現実の人物か、または、私が白いスクリーンの上に見たかも知れない幻影であろうか、という自分自身の疑問に対しても判然たる解答を与えることが出来る。

酒井嘉七の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本