生きているコタンの銅像
本文約5,700字 ・ 読了時間 約12分
あらすじ(AIが作成しました)
白老町で長年地域医療に尽力する高橋房次氏の功績を綴る。大正時代に赴任した当初から、困窮するアイヌの人々や開拓者らに対し、分け隔てなく献身的な診療を続けてきた。信念を貫く情熱と人間性が住民から深く敬愛され、同地の名誉町民第一号となった氏の篤行と、人々に慕われる医師としての軌跡を描く。
💰 この本を応援する(投げ銭)
銅像が皆の手で作られた 白老のシュバイツァーとして、すでに貴重な存在になっている高橋房次氏が、今度白老町の住民一同から銅像をおくられることになったという。町民がこぞって醵金に応じ、町役場前の広場に銅像をたてるということは、誠に意義の深いことだと思われる。
大正11年3月に、旧土人保護法施設として完備された道立白老病院の院長とし、高橋氏が赴任されてからも37年になる。その間、土人部落の一員として、文字通りアイヌや一般の人達とともに、その生活の労苦をあじわってきたわけである。77歳の高齢をもって、いまなお矍鑠として、町民の診療にあたっている氏のためにも、今度の町のもよおしは、ほんとうに心あたたまる朗報である。
白老の名誉町民第一号の氏にたいし、いま老人の人達は、全山紅葉の時期までには氏の胸像を完成させ、その除幕式をかねて高橋氏の功績顕彰会をひらこうと、まさに町ぐるみ一丸となって、その達成に全力をあげている。
私はそこで、なぜ高橋房次氏が、白老の町民一同から銅像をおくられるようになり、どういうわけでこの白老町にとどまっているかということと、氏が白老の医者になった、赴任当時の様子など具体的な例をもならべたてながら、氏のヒューマンな人間性の一面を語って行きたいと思う。
白老の医師となる 明治15年、栃木県下都賀郡で生れ、その後、36年3月に東京慈恵医学専門学校を卒業し、翌年7月に軍医官として日露戦争に従軍、戦争後、明治40年8月から42年7月までの間を警視庁にあって検疫委員として在職し、42年8月には、青森県町立田部病院の院長として赴任した。大正4年5月まで、そこでの生活は続いている。
その後大正4年6月に渡道して、日高支庁管内の新冠村の村医になり、在郷軍人分会長をかねながら、村民の与望を一身ににない活躍した。
大正11年3月、高橋氏は新冠村にわかれをつげ、庁立白老土人病院長として白老に着任した。村医嘱託もかねたらしい。