ふしぎなような話であるが、最高の美食はまったく味が分らぬ。しかし、そこに無量の魅力が潜んでいる。
日本の食品中で、なにが一番美味であるかと問う人があるなら、私は言下に答えて、それはふぐではあるまいか、と言いたい。東京でこそほとんどふぐを食う機会がないが、徳島、下関、出雲あたりに住んで、冬から早春の候にかけて、毎日のように、ふぐを食うことのできる人を私は真にうらやましく思う。
去る一月、私は陶土の採取のために九州の唐津へ、そして天然のすっぽんの研究のために柳河へ行った。その帰途、ちょうど下関の大吉でふぐを食うことができた。例によってなんの味もないようであったが、やはり、ふしぎな魅力をもっていた。白味噌の汁加減はあまり感心しなかったが、そこはふぐの助けである。決していやではなかった。
翌朝、眼が覚めるが早いか、もうふぐが食いたいと思ったが、都合で広島へ出た。広島と言えば、おのずと生がきを試みねばなるまい。生がきも日頃美味いものであるとしていたにもかかわらず、ふぐを食べた翌朝の口には、到底問題ではなかった。いかに生がきに満幅の好意を傾けて、食卓の上で、剥いては食い、割っては食おうとも、その味は遂に舌端だけのものであって、人の心魂に味到する底のものではなかった。そこで夜を待って、ふぐを「ちり」にして味わい抜いた。
そのふぐの味を、うなぎの蒲焼きの美味さ、まながつおの味噌漬けの美味さ、まぐろの握りずしの美味さなどに比較しては、全く味なきに等しいものであった。最初、びくびくものでふぐを食べた人たちが、すぐにもう「こんな美味いものを食べないという話がどこにあろうか」などと言うのも、実際、無理はないのである。
すっぽんも美味いものであるが、このふぐに較べては、味があるだけに悲しいかな一段下である。否、その味が味として人に分るから、まだそれは、ほんとうの味ではないのである。すなわち、無作の作、無味の味とでも言おうか、その味そのものが、底知れず深く調和が取れて、しかも、その背後に無限の展開性をもっているものでなければ、真実の美味ではなさそうである。