味覚の美と芸術の美
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あらすじ(AIが作成しました)
自然を美の源泉と位置づける著者は、人工や技術に頼る前にまず自然を見る眼を養う必要性を説く。日常の食や芸術において、優れた自然環境に恵まれた日本が持つ独自の含蓄や美の真髄を論じる。諸外国の文化や技術と比較しつつ、日本が世界に冠絶する自然天恵を受けていると強調し、真の芸術や美味を追求する姿勢として、自然との調和と日本的な美点への自覚を深く追求していくべきだと提言する内容である。
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すべての物は天が造る。天日の下新しきものなしとはその意に外ならぬ。人はただ自然をいかに取り入れるか、天の成せるものを、人の世にいかにして活かすか、ただそれだけだ。しかも、それがなかなか容易な業ではない。多くの人は自然を取り入れたつもりで、これを破壊し、天成の美を活かしたつもりで、これを殺している。たまたま不世出の天才と言われる人が、わずかに自然界を直視し、天成の美を掴み得るに過ぎないのだ。
だから、われわれはまずなによりも自然を見る眼を養わなければならぬ。これなくしては、よい芸術は出来ぬ。これなくしては、よい書画も出来ぬ。絵画然り、その他、一切の美、然らざるなしと言える。
仮りに私の食道楽から言っても、ここに一本の大根があったとする。もし、その大根が今畑から抜いて来たという新鮮なものであるならば、これをおろしにして食おうと、煮て食おうと、美味いに違いない。だが、もし、この大根が古いものであったならば、それはいかなる名料理人が心を砕いて料理するとしても、大根の美味を完全に味わわせることは出来ない。天の成せる大根の美味は、新鮮な大根以外にこれを求めることが出来ないからである。
また、ここに一枝の花があったとする。その花が、新しく今咲き出たばかりのものであるならば、それはそこに何気なく投げ出してあっても美しい。だが、もし、これがすでに萎れかかっているような花であるならば、いかなる名手が、いかなる名器に活けようと、花の美は天成的に味わうことは出来ない。人工人為は所詮天成に代え難いからである。
以上述べた如く、美の源泉は自然であり、美味の源泉もまた自然にある。こんなことは非常に簡単なことであり、これを証する例を挙げよとなればいくらでもある。だが、この簡単な事柄がなかなか一般人には解らない。そのために無益な努力をして、例えば、料理ひとつにも、つまらない小細工をして、余計な味をつけたり、絵ひとつ描くにも、才に任せて無理に形を整えたり、無闇に絵具を濫用する。