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TORENDIA

よい書とうまい書

本文約7,900字 ・ 読了時間 約16分

あらすじ(AIが作成しました)

書における「うまい」とは何かを論じる随筆である。世間では整った書体を能書と見なす傾向があるが、筆者の見解では書の良し悪しは体裁や線の太細、技巧の模倣では決まらない。貫之や弘法大師の書を例に挙げ、筆致に宿る人間価値や無形の精神こそが尊いと説く。さらに北方心泉ら実在の書家を批評し、書の美は道具の良し悪しではなく、書き手個人の天分や品格が自然と現れた時にこそ成立するものであると綴る。

北大路魯山人

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古来世間でいう「うまい書」というものには、例えば夏の夕、裸であぐらをかいて、夕顔棚の下で涼しい顔をしているようなのがある。

それではまた、先輩諸君を前にして失礼でございますが、また実学上のことを話さしていただきます。

今日、字のことは、相変らずうまいとか、まずいとかいうことで済んでしまっておるようでありますが、前に申し上げましたように、うまいとか、まずいとかいう事はなかなか簡単に片付けられるようなものではありません。ただ、うまいといった所で、うまいのはどうだとか、まずいのはどうだとかいう意義が詳しく得心の行くように分って来なければならないと思うのであります。うまい書は夕顔棚の下で涼しい顔をしておるような、呑気に、洒々として書いておるようなのがございます。例えば、江月和尚のごとき、原伯茶宗のごとき、あるいは、一茶の書なんぞは、そんなことをいって宜しいと思います。

かと思うと、同じ能書でありながら、容姿端麗そのもののようなものもある。

また堂々と三軍を叱咤するような勢いあるものもある。

それからまた非常に厳然とした形の上に正しい謹厳な書もあります。それも能書の中に這入っている。それからまた堂々三軍を叱咤するような勢いのよい字もある。みなさんも、そういう書のある事をご承知であろうと思いますが……。

その他、痩躯鶴のごとき、あるいは鈍愚驢馬のごとき、さては富有牡丹のごとき、なよなよと可憐な野に咲く撫子のごとき、細雨のごとき、あわただしい夕立のごとき等々、形容すれば際限のないほど、いわゆる能書なるものに様々な「柄」がある。

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