TRENDIA CLASSIC

魅力と親しみと美に優れた良寛の書

北大路魯山人

1 / 6

良寛様のようなずばぬけた書を、我々如きが濫りに批評するなどは、僭越に過ぎるかも知れぬが、常々良寛様に親しみと尊敬とを持っている一人として、感ずるところを、一応述べさせて貰うことにする。

良寛様の書は質からいっても、外貌からいっても、実に稀にみるすばらしい良能の美書であって、珍しくも、正しい嘘のない姿である。いわゆる真善美を兼ね具えたものというべきであろう。かような良能の美書の生まれたのは、良寛様その人の人格が勝れて立派であったからである。書には必ず人格が反映しているもので、人格が反映していない人格以上の書の生まれ出ることなど、まずもってあり得ない。

良寛様の書は、良寛様のあの人となりにして、初めて生まれたものなのである。今一方仮りに、良寛様の人格を封じ込めておいて、単に技能的立場だけから見るとしても、良寛様の書技は大したもので、古法帖に伝わる幾多の能書に比較して更に遜色がないのみか、全く驚異に値する入神の技にまで立ち至っている。この点でも、私は深く感心させられているのである。

良寛様のには、また一点一画と雖も未熟な破綻というものがない。この点、また内容抜きで考えてみても、大天才であることを否む訳にはゆかない。誰しも、どこか一カ所や二カ所は、とかく筆の進行に破綻を来し易いものである。しかるに、良寛様の書には、隅々まで、くまなく検討してみても、それがないのみか、少しの疲れも、弱り目も見せている個所がないのである。

筆はいよいよ妙境のみを走り、人をして一々至妙、至妙と連呼させずにはおかないのである。賢さなどというものでは、とても至り得ない、実に動きのとれない至妙の境界に、その一点一画は確と打ち込まれ、不足のいいようのない組み立てが成立して、美観と構造の上に呈しているのである。ゆえに、よく有り勝ちな危な気というものがなく、安んじて鑑賞できるのである。なおまた、良寛様の書は、その時、その時の心境によって、書技のさばきがつき、自由に縦横に変化を表現し、かりそめにも膠着する処がない。

北大路魯山人の他の作品