陶器個展に観る各作家の味
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あらすじ(AIが作成しました)
東京高島屋で開催された陶芸展を機に、河井寛次郎、浜田庄司、富本憲吉ら現代作家の作品と、それらが背負う個性のあり方を論じる。伝統的な茶道的鑑賞を無視し、西洋趣味や下手物の美を追求する作家たちの姿勢を分析する。個々の作家が持つ先入主や現代の空気に触れつつ、偏食的な鑑賞眼が美術工芸に及ぼす影響を指摘する。著者は、欧風の美点を日本化することで真の健康な美の創造を目指す自身の制作方針を綴る。
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本秋も都合よく、河井寛次郎氏の年中行事である東京高島屋に於ける製作展を観ることが出来た。氏の仕事も近来次第に磨きがかかり、段々とこなれて、その美しさは楽々と増して行くのが目立ち、小生などにも教えられるところが少なくなかった。
しかし、人間の持ち前というものは、どう仕様もないもので、河井さんは河井さん、浜田さんは浜田さん、富本さんには富本さんと、各々その人々の個性と好みが自ずと具現していて、その持ち前の表われが観る者の眼にはほんとに面白く感じられる。
誰が何をするにしても、個性の他に先入主というものがあって、いやらしく、ぴったりとこびりついている。それが良い素因を作っている場合もあるが、悪い祟りとなって一生とりつかれ、不自由させられている場合もある。そこには囚われんと欲するも能わざる体のものがあって、各人それぞれ容体や色彩を異にして見参する。こんな意味で以上の三氏も大同小異ながら趣きを異にするものである。しかも、この三人を大なり小なり動かした者に英人リーチがいる。この人も眼色の変っている如く持ち味も少しく別である。ここへ図らずも遅れて出た、しかも十五年も後に顔を出して、その出現を怪訝な眼をもって見られた小生が加わるとなると、いよいよ多彩多異、賑やかたらざるを得ない。
この四人の特色が一々に異なっていることは、固より不思議のあろうはずはないが分けても刮目に価いすることは、小生を別にした四氏が、揃いも揃って在来の茶道的鑑賞を問題にしていないことである。日本的最高所を軽視することである。ここで明白に、無視しているということも、どうかと思われないでもないが、ともかく茶道鑑賞、すなわち美術鑑賞を根幹として樹ち、三、四百年も流れて来ている茶道鑑賞に一向関係がついていない。このことは、それぞれの作品に徴して明白である。