TRENDIA CLASSIC

好人物

佐々木邦

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子供のない家庭

「安子や、一寸見ておくれ」

と千吉君は家へ帰って和服に着替えると直ぐに細君を呼んだ。出入り送り迎えは欠かさないが、着替えの手伝いまでしてくれる時代はもう疾うに過ぎ去っている。結婚して六七年になれば細君も良人を理解する。この人ならこれぐらいで沢山と略見当がついて、待遇が自ら定って来る。但し粗末にするという意味では決してない。自分の都合の好い折丈け勤めて置く。気の向いた時には特に念を入れて、

「まあ、ひどい埃だこと!」

なぞと、大袈裟な表情諸共、帽子にブラシをかけて渡すことさえある。良人はその間玄関に待たされていても苦情に思わない。矢張り安子はよく気がつく、と一寸の間でも新婚当時の心持に戻る。細君の側に於ても、これ丈けのことをして置けば、まさかの場合に言う丈けのことが言える。

「おい、安子、刺が立ったんだよ」

と千吉君は再び呼んだ。

「はい、唯今」

と細君は台所から出て来て、

「何うかなさいましたの?」

「指に刺を通したんだよ。この爪の間に見えるだろう?」

と千吉君は右の手の中指を突き出して、

「馬鹿を見た、一寸電信柱へ触ったばかりに」

「これは取れませんわ、毛抜きでなくちゃ」

と細君は毛抜きを持って来て試みたが、矢張り思わしくない。

「針で取りましょう」

「痛いだろうね?」

と千吉君は意気地のないことを言う。

「少しの我慢ですわ」

と細君は無論自分の我慢でない。早速針の先を焼いて何等の躊躇もなく荒療治に取りかゝった。

「痛い/\!」

「でも少し掘らなけりゃ取れませんもの」

「他の指だと思ってひどいことをしてくれるな。爪の肉はクイックといって身体中で一番痛いところになっている」

と千吉君は余り痛いので、学校時代に習った英語を思いだした。

「これじゃ手が逆ですから何うしても駄目ですわ。斯う坐り直って下さい」

と細君も自ら居住いを換えて、

「斯うよ」

と横から良人を抱くように構えた。しかし深く食い込んでいるので容易に抜けない。間もなく針先の都合上夫婦は悉皆寄り添ってしまって、頬と頬が触れ合うばかりになった。

「おゝ痛い!」

「然う動いちゃ駄目よ」

「療治が荒いんだもの、お前のは」

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