好人物
本文約51,900字 ・ 読了時間 約104分
あらすじ(AIが作成しました)
村島千吉と妻の安子は、子供のない家庭で犬を飼いながら日常を送る。ある日、千吉が郊外の土地を視察しようと提案し、夫婦は妻の姪である八千代と共に荻窪へ向かう。視察先で知人の馬に試乗した千吉は、不意に振り落とされて鼻を強打する騒動を起こす。鼻を腫らした千吉と共にこの地を散策した安子は、この郊外の環境を気に入り、夫婦は将来的な移住を検討する中で、生活上の新たな約束事を交わしていく。
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子供のない家庭
「安子や、一寸見ておくれ」
と千吉君は家へ帰って和服に着替えると直ぐに細君を呼んだ。出入り送り迎えは欠かさないが、着替えの手伝いまでしてくれる時代はもう疾うに過ぎ去っている。結婚して六七年になれば細君も良人を理解する。この人ならこれぐらいで沢山と略見当がついて、待遇が自ら定って来る。但し粗末にするという意味では決してない。自分の都合の好い折丈け勤めて置く。気の向いた時には特に念を入れて、
「まあ、ひどい埃だこと!」
なぞと、大袈裟な表情諸共、帽子にブラシをかけて渡すことさえある。良人はその間玄関に待たされていても苦情に思わない。矢張り安子はよく気がつく、と一寸の間でも新婚当時の心持に戻る。細君の側に於ても、これ丈けのことをして置けば、まさかの場合に言う丈けのことが言える。
「おい、安子、刺が立ったんだよ」
と千吉君は再び呼んだ。
「はい、唯今」
と細君は台所から出て来て、
「何うかなさいましたの?」
「指に刺を通したんだよ。この爪の間に見えるだろう?」
と千吉君は右の手の中指を突き出して、
「馬鹿を見た、一寸電信柱へ触ったばかりに」
「これは取れませんわ、毛抜きでなくちゃ」
と細君は毛抜きを持って来て試みたが、矢張り思わしくない。
「針で取りましょう」
「痛いだろうね?」
と千吉君は意気地のないことを言う。
「少しの我慢ですわ」
と細君は無論自分の我慢でない。早速針の先を焼いて何等の躊躇もなく荒療治に取りかゝった。
「痛い/\!」
「でも少し掘らなけりゃ取れませんもの」
「他の指だと思ってひどいことをしてくれるな。爪の肉はクイックといって身体中で一番痛いところになっている」
と千吉君は余り痛いので、学校時代に習った英語を思いだした。
「これじゃ手が逆ですから何うしても駄目ですわ。斯う坐り直って下さい」
と細君も自ら居住いを換えて、
「斯うよ」
と横から良人を抱くように構えた。しかし深く食い込んでいるので容易に抜けない。間もなく針先の都合上夫婦は悉皆寄り添ってしまって、頬と頬が触れ合うばかりになった。
「おゝ痛い!」
「然う動いちゃ駄目よ」
「療治が荒いんだもの、お前のは」