その子は、ぼくを嫌っています。いや、たしかに憎んでいるのです。
今子供と言いましたが、もう子供じゃないのかも知れない。戦後子供の背丈がにょきにょきと向上して、どこで大人と子供の区別をつけるのか、どうも判らなくなって来たようです。言うことは子供っぽくても、身長が百八十センチもあったり、あるいは逆に、恰好は子供子供としているのに、言うことだけはぺらぺらと悪達者だったり、けじめのつかない場合がしばしばある。ぼくはもう三十七歳になって、彼等の世界と相渉ることがないので、どうでもいいようなもんですが、やはりけじめのつかないということは、良いことじゃありません。
先年先輩のお伴をして、九州へスケッチ旅行に行きました。いろいろ見たり聞いたり描いたりして来ましたが、驚いたのは向うの食用植物の大ぶりなことですな。ビールの肴にするから、モロキュウを呉れと頼んだら、一尺近いキュウリがでんと皿の上に乗って出て来る。びっくりして、も少し細いのを、と頼むと、
「こっちの方がおいしかとです。花のついて痩せたのは、栄養はなか!」
ナスもそうです。東京で煮物に使う長いナスが、姿を変え形を改めては、皿の上に現われる。ふしぎに思ってわけを聞いてみると、向うでナスビと言えばこれで、丸っこいのは特別に巾着ナスと言うのだそうです。関東では丸っこいのが普通で、長いのを長ナスと呼ぶでしょう。つまりその反対ですな。考えの基本が違う。
近頃の子供(または半大人)は、この九州のキュウリやナスに似ているような気がします。こちらの食慾や理解を頑強に拒否するようなものを、たしかに持っている。何に由来するのか、ぼくはよく判らない。特に判りたいとも思わない。
その子の名前は、平和と言うのです。平和と言うからには、終戦後に生れたのに違いありません。何が何でも勝ち抜くぞの時代に、自分の子供に平和なんて名がつけられる筈はないですからねえ。
平和君の声は、ぼくは前から聞いていました。私の斜めうしろの家に、亀田さんという家があります。そこへ二日に一度、三日に一度ぐらい、少年の声が遊びにやって来る。
「亀田クーン」
「亀田クーン」