凡人凡語
本文約15,300字 ・ 読了時間 約31分
あらすじ(AIが作成しました)
三十七歳の画家である語り手は、世間との関わりを水族館の魚と観客のような距離感に保ちながら独身生活を送る。ある時、近所に住む少年・平和が画室の壁に向かってボールを投げつける遊びを始め、平和との関係や日常生活に変化が訪れる。本書は、平穏を望む語り手が、周囲からの干渉や少年との奇妙な対立を通じて、自己の処世術と現実との間の埋めがたい溝を、淡々とした筆致で綴る。
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その子は、ぼくを嫌っています。いや、たしかに憎んでいるのです。
今子供と言いましたが、もう子供じゃないのかも知れない。戦後子供の背丈がにょきにょきと向上して、どこで大人と子供の区別をつけるのか、どうも判らなくなって来たようです。言うことは子供っぽくても、身長が百八十センチもあったり、あるいは逆に、恰好は子供子供としているのに、言うことだけはぺらぺらと悪達者だったり、けじめのつかない場合がしばしばある。ぼくはもう三十七歳になって、彼等の世界と相渉ることがないので、どうでもいいようなもんですが、やはりけじめのつかないということは、良いことじゃありません。
先年先輩のお伴をして、九州へスケッチ旅行に行きました。いろいろ見たり聞いたり描いたりして来ましたが、驚いたのは向うの食用植物の大ぶりなことですな。ビールの肴にするから、モロキュウを呉れと頼んだら、一尺近いキュウリがでんと皿の上に乗って出て来る。びっくりして、も少し細いのを、と頼むと、
「こっちの方がおいしかとです。花のついて痩せたのは、栄養はなか!」
ナスもそうです。東京で煮物に使う長いナスが、姿を変え形を改めては、皿の上に現われる。ふしぎに思ってわけを聞いてみると、向うでナスビと言えばこれで、丸っこいのは特別に巾着ナスと言うのだそうです。関東では丸っこいのが普通で、長いのを長ナスと呼ぶでしょう。つまりその反対ですな。考えの基本が違う。
近頃の子供(または半大人)は、この九州のキュウリやナスに似ているような気がします。こちらの食慾や理解を頑強に拒否するようなものを、たしかに持っている。何に由来するのか、ぼくはよく判らない。特に判りたいとも思わない。
その子の名前は、平和と言うのです。平和と言うからには、終戦後に生れたのに違いありません。何が何でも勝ち抜くぞの時代に、自分の子供に平和なんて名がつけられる筈はないですからねえ。
平和君の声は、ぼくは前から聞いていました。私の斜めうしろの家に、亀田さんという家があります。そこへ二日に一度、三日に一度ぐらい、少年の声が遊びにやって来る。
「亀田クーン」
「亀田クーン」