十一月四日は、たまたま函館にある北大の水産学部で、文化講義をする日になっていた。
朝、学校へ顔を出したら、とたんに学部長の武田さんが、「先生、今朝のラヂオの臨時ニュースを御ききですか。湯川博士がノーベル賞を貰うことに決ったそうですが」と、やや興奮した語調で話し出された。
「そうですか。それはたいへんなニュースですね。ちっとも知りませんでした」
「昨夜のニュースでは、多分決りそうだといっていましたが、今朝はいよいよ確定したというんです」
「それはほんとうに芽出度い話だ。それじゃ今日は終戦以来初めての芽出度い日ですよ」
「先生は、アメリカで湯川博士に御会いになったそうですが、その時何か」
「いや、そんな話は全然ありませんでした。湯川さんも、きっと喜んでいることでしょう。それにアメリカにいる日本人たちが、大いに肩身の広い思いをしていることでしょう」
こういう話をとり交しているうちに、九月に紐育で会った時の、湯川さんの顔、奥さんや子供さんたちの像が、私の頭の中に、ありありと蘇ってきた。初めて内報があった時に、奥さんはきっと、あの大きい眼を一層まんまるにして、喜んだことだろうと、その顔が見えるような気がした。湯川さんもきっとほっとしたことだろうと思う。
昨年の八月、湯川さんが、プリンストンの高級科学研究所から招かれて、渡米するという寸前、京都で会った。それは京都によくある灼きつけるような暑い日の午後であった。二階の方々の窓を開け放して、風通しのいい中で、湯川さんと奥さんとは、部屋一杯に荷物をならべ立てて、整理の真最中であった。湯川さんの渡米許可は早く下りていたが、奥さんの方はその頃はまだ許可がなかなかとれない頃だった。それが、私が訪れた日の前日かに、東京の司令部から電話があって、いよいよよろしいということになったのだそうである。二、三日で出発の準備をして、留守宅の手配をして、というのであるから、たいへんな騒ぎの最中であった。