こどものときから妙に橋というものが好きだった。こちらの岸からあちらの岸へ人工の仕掛けで渡って行ける。そういった人間の原始的功利の考えがこどもの好奇心の頭を擡げさせやすいのかとも考える。しかしそれならなんの履物ででもあれ、その上を渡りさえすれば気が済む筈である。だが私の場合は違っていた。どの橋でも真新らしい日和下駄の前を橋板に突き当てて、こんと音をさせ、その拍子に後歯を橋板に落してからりと鳴らす必要があった。
こん からり
足を踏み違えて橋詰から橋詰までこの音のリズムを続け通させるときは、ほんとにお腹の底から橋を渡った気がして、そこでぴょんぴょん跳ねて悦んだ。母親は「この子の虫のせいだからせいぜいやらしてやりましょう。とめて虫が内に籠りでもしたら悪い」そういって新しい日和下駄をよく買い代えて呉れた。たいがい赤と黄色の絞りの鼻緒をつけて貰った。
こういう風に相当こどものこころを汲める母親だったが、私の橋のさなかで下駄踏み鳴らしながら、かならず落す涙には気がつかなかった。私は橋詰から歩いて行ってちょうど橋の真中にさしかかる。ふと両側を見る。そこには冷たい水が流れている。向うを見ると何の知合いもない対岸の町並である。うしろを観る。わが家は遠い。たった一人になった気がしてさびしいとも自由ともわけもわからぬ涙が落ちて来る。頭の上に高い太陽――こういう世界にたびたび身を染めたくて私は橋を渡るのを好んだのかも知れない。
ある早春の晴れた昼である。わたしはまた橋を渡り度くなって町に一番近いそこへ行った。その橋は短かったが修繕し立ての橋板はまだ生木の潤いを帯びていて音を含んでなつかしく響いた。橋詰に珍らしく大きな猫柳の木があって、満枝の芽はやや銀の鋒鉾を現しかけていた。それは風の吹くときだけ光った。あるとき私が橋を渡り終えて悦んでぴょんぴょん例の小躍りをしていると、突然その木の蔭から汚ない服装の男が飛び出して私を捕えた。
――このあまっちょだな。毎日下駄を鳴らして通ってうるせえのは。よし下駄を取上げてやる。