江川蘭子
本文約11,000字 ・ 読了時間 約23分
あらすじ(AIが作成しました)
高層アパートの過酷な環境で育った江川蘭子は、両親の暴力による浮遊感覚を快楽として受け入れる変態児として成長する。両親の悲劇的な死を幼少期に目撃し、血の池を遊び場にする特異な経験を経て、十四歳で家出し曲馬団へ身を投じる。空中軽業で命がけの刺激を求めていた彼女は、やがてパトロンの老人を巡る犯罪的な遊戯に手を染め、さらなる背徳的な快楽と悪の道に目覚めていく。
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赤き泉
ビヘヴィアリズムの新心理学によれば、人間生涯の運命というものは、遺伝よりも教育よりも、生後数ヶ月の環境によって殆ど左右されるものだそうである。で、女妖江川蘭子の悪魔の生涯も、恐らくは彼女の赤ちゃんであった時代の世にも奇異なる環境のせいであったに違いない。
ワットサン氏曰く、赤ちゃんに対しては「一見明白に唯だ二つの刺戟が、吾々が恐怖反応と呼ぶ行動の型を呼び起す。その一つは高い音であり、他の一は支持の滅失である」
赤ちゃんが鋭い物音におびえ、寝ている敷蒲団を急激に引かれたり、お湯に入れた刹那などに泣き出すのがそれだ。むつかしい言葉で言うと、その時容易に観察される反作用は、呼吸の急激なる停止、動悸及び呼吸の調子の著しい変化、号泣及び両手を上方に投げることである。
世の親達は(少くとも母親達は)育児の本能によって、彼等の赤ちゃんに、この二種の恐怖を出来る丈け与えまいと骨折るものだ。スヤスヤと寝入っている赤ちゃんの側を歩く時は足音を盗み、お湯に入れる時は、赤ちゃんの身体をタオルで巻いて、ギュッと抱きしめてやるという工合に。
ところが赤ちゃん江川蘭子の場合は正反対であった。と云っても、必ずしも彼女の若い母親ばかりの罪ではなかったのだが、先ず第一の不幸は、彼女一家の住宅が、余りに高過ぎた事だ。つまり蘭子は有名な大アパートの七階の一室で生れたのである。「音の恐怖」の代表的なものでは、日に三度、アパートの隣の製菓会社のサイレンが鳴り響いた。蘭子はその怪音から二間とは隔たぬ窓際に寝かされていたのである。
「支持の滅失」の代表的なものは、母親が日に幾度の外出に、彼女を抱いて乗り込む、アパートの高速度リフトであった。その都度蘭子の心臓は、リフトの床と共に、一刹那に百尺の奈落へと落ち込んで行った。