東洋の書画における墨は、文房四宝の中でも特別な地位を占めていて、古来文人墨客という言葉があるくらいである。従って墨に関する文献は、支那には随分沢山あるらしく、また日本にも相当あるようである。しかしそのうちには、科学的な研究というものは殆んど無い。或いは絶無と言っていいかもしれない。それは東洋には、昔は科学が無かったのであるから致し方のないことである。
墨と硯の科学的研究は、私の知っている限りでは、寺田寅彦先生の研究があるだけのようである。飯島茂氏の『硯墨新語』なども墨の科学的研究と言われているが、この方は方向は一部科学的研究に向いており、面白いところもあるが、まず文献的の研究というべきであろう。
寺田先生は晩年に理化学研究所で、墨と硯の物理的研究に着手され、墨を炭素の膠質と見る立場から実験を進め、最後の病床に就かれるまで続けておられた。研究の内容は三部から成っている。第一は墨流しの研究であって、これは我が国に古来からある墨流しを、物理的に研究されたものである。第二は墨と硯の物理的研究であって、硯の性質と、特に墨を磨るという現象が物理的に言って何を意味するか、その機構を研究されたものである。第三は墨汁の電気泳動の実験であって、墨の粒子の電気的性質を調べられたものである。この最後の研究は未完成であって、その予報が帝国学士院記事に出ただけで、本論文は未発表のままに終っている。初めの二つは完成された論文として、理化学研究所の欧文報告に出ている。三論文とも英文で発表されている。
この初めの二つの論文は、前にその紹介をしたことがあって『画説』という雑誌に発表した。もう十年近くも昔の話である。その初めの方『墨流しの物理的研究』は、北京図書館の雑誌『舘刊』第三号に、漢訳されて載ったことがある。丁度その号には、銭稻孫氏による志賀さんの『転生』の和漢対訳も載っていた。『転生』は私の好きな作品だったので、その奇遇を一寸嬉しく思った。何だか偶然に志賀さんと支那で思いがけなく逢ったような気がした。