寺田寅彦という名前を、初めて知ったのは、たしか高等学校二年の頃であったように思う。
あの時代は、大正の中頃といえば、わが国の社会運動の勃興時代であった。河上博士の『貧乏物語』が、高等学校の学生たちの間に熱心に読まれていた。『中央公論』や『改造』の外に、新しく『解放』という雑誌も出て、それ等がいずれも、その方面の論文で雑誌の大半をうずめ、こぞって社会運動の烽火をあげていた時代であった。
しかしそれ等の論文は、いずれも非常に難解な言葉を使い、文章もまた難渋をきわめたものが多かった。それに何か熱病的な気配が、どの雑誌にも漲っていて、読後感は内容の如何とは別問題に、私などには極めて後味の悪いものが多かった。そういう時に先生の『丸善と三越』や『自画像』が中央公論に中間記事として現われたのであった。それは驚きであったばかりでなく、少なくも私にとっては、何か救いに似たような感じを与えてくれた。汗のにじんだ熱っぽい肌に埃がこびりつく、そういう時に一杯清冽な水をのんだような気持がした。その時の印象は今でも思い出すことが出来る。これ等の随筆は変名で書かれたものであるが、実は寺田寅彦という物理学者の筆によるものであることを間もなく知った。しかしその名前は当時の私には縁の遠い話であった。後年その先生の助手として、実験のお手伝いをするような巡り合わせになろうなどとは、勿論夢にも思わなかった。
『丸善と三越』を手始めに、先生の随筆が次ぎ次ぎと中央公論に出始めたのは、大正九年のことである。後で知ったことであるが、その前年の暮に、先生は大学の研究室の中で突然吐血された。三年越しの胃潰瘍が遂に破局に近い状態にまで来たのであった。直ちに大学病院に入院し、真鍋氏の診療を受けて、危機は脱しられたのであるが、その後の二カ年は、自宅で療養生活を送られた。その静養の間にあって、藪柑子時代以後一時中絶していた先生の創作意欲が、急にはけ口をもった清水のように、渾々として流れ出したのであった。