TRENDIA CLASSIC

自由と進歩

中谷宇吉郎

1 / 13

一 自由論争

新年を迎えて、過去一年間をふり返ってみると、まことに多事であったという気がする。鳩山総理のモスクワ訪問と日ソ交渉、砂川事件など、何となく急迫した空気が、日本の空におおいかぶさってくる気配が感ぜられる。

こういう気持を一層強めたものは、昨年の春から夏にかけて、一時日本を風靡した、いわゆる自由論争である。この方は、砂川事件ほど刺戟的ではなかったが、有識階級の間に発生した事件として、案外根強い影響を残したように思われる。

ジャパンタイムスによれば、ことの起こりは、私と桑原武夫氏との対談に始まったということになっている。文藝春秋に出た『自由過剰の国・日本』という対談で、われわれ両人は、日本には自由が多過ぎると論じた。しかしそれは大したことではなかったが、その後一月ばかりして、石川達三氏が、朝日新聞に『世界は変った』を書かれて、俄然議論が沸騰する騒ぎとなった。恐らく、日本で評論家と目されている人の大多数は、この問題に口をさしはさまざるを得ないような情勢になった。事実、いわゆる第一線の評論家或いは文化人は、ほとんど全部がこの問題について、意見を述べられた。

問題は、それほど重大であったのである。というわけは、この論争をつきつめて行けば、結局日本は、自由国家群の考え方を可とするか、共産圏諸国の考え方に落ちつくか、というところに帰するからである。あまりにも簡単に割り切ると言われるかもしれないが、理念や文章の粉飾をとり去って、煎じつめたところは、個人主義を重視するか、全体主義的な考え方を取り入れるかという点に行きつく。

この点を説明するには、発火点となった石川氏の論文からはいる方が、一番わかり易いであろう。石川氏の説を要約すれば、次のとおりである。日本には自由が多分にあるが、その自由には方針がない。知識人は各々自己の小自由に安住していて、建設的な意図をもたない。ソ連や中国では、自由は制限されているが、建設がある。国力がどんどん充実して行き、国民の生活水準が上がることが、大きい意味での自由である。日本も何とかしなければ、近い将来に、すっかり取り残されてしまうであろう。

中谷宇吉郎の他の作品