人間の幸福をはばむ最大のものの一つに、無知がある。ギリシャの哲学では、その点を強調して、知らないで犯した罪の方が、知って犯した罪よりも重いとした。罪の悪と、知らないことの悪と、二重の罪を犯したことになるからである。
こういう考え方は、一見、われわれの感情とは、ひどくかけ離れているようにみえる。知らないで犯した罪は、情状酌量すべき余地があるが、悪いことと知りながら犯した罪は、罪状がずっと重い。これが、われわれの普通の感じである。理性の上では、あるいはギリシャふうな考え方に、理窟があるかもしれないが、人情としては、知らないでやったことなら、しかたがないと同情する方が、人間的である。
おそらくわれわれ日本人の考え方では、ほとんどの人が、こういうふうに感じていることであろう。しかしこの考え方は、もっと深く掘り下げて検討してみる必要がある。無知の恐ろしさということについて、従来あまり深い考慮が払われていなかったからである。
無知の罪悪について、まず今言ったような感情的な面から考えてみよう。すぐわかることであるが、同情論としても、全く逆の考え方も成り立つのである。
悪いことと知りながら、何か罪を犯すのは、たいていの場合、よほど切羽つまった事情にあるからである。その極端な例としては、数日間食うものが無くて、餓死一歩手前にある人間が、一切れのパンを盗んだ場合が挙げられよう。この場合は悪いことと知りながら盗んだわけであるが、大いに同情すべき余地がある。
もちろんそうでないように見える場合もたくさんある。たとえば、ギャングなどが、周到な準備をととのえて銀行を襲撃するとか、子供を人質にとってそれを殺すとかいう場合は、同情すべき要素が全くない。しかしよく考えてみると、これらは、悪いことと知りながら犯したというよりも、むしろ知らないのではないかという気がする。