TRENDIA CLASSIC

犬がなくとガラスがこわれるか

中谷宇吉郎

1 / 25

今日は、科学の時代といわれる。

宇宙ロケットがとび、人工頭脳がそれを操作する。原子力発電機が、北極の厚さ二千メートルの氷の上に設置され、生命をもったヴィールスが、結晶としてとり出される、まさに科学の時代である。

しかし、これほど、科学科学とさわがれる世の中でありながら、それでは「科学とはなにか」ときかれると、きわめてあいまいな返事をされる人のほうが多い。ロケットも、人工頭脳も、原子力発電も、科学によってつくられたものであって、科学そのものとは、いいかねる。

「科学は、自然界にあるものを、ものとして取扱い、その本体と、いろいろなものの間にある規則性、すなわち法則とをしらべる学問である」といった方がよい。しかしこれでも、なんのことかよくわからない、と言われるであろう。わからない方がほんとうであって、こういう抽象的な言葉で、わかったような気になられると、かえって困るのである。

それで、一つ例をあげて、説明してみよう。

ここに、一筋の川があったとする。その川岸をいろいろな人が、おとずれてくる。ある人は、「これは流れもそう速くなくて、よい川だ。この付近に工場を建てたら、舟便が使えて、ずいぶん便利だろう」と考える。この人は実業家であり、この川を、営利的に見ているわけである。

べつの人は、川岸に立って、あたりの景色をながめ、「ああ、いい景色だ。あのあたりの水の色がすばらしい」という。この人は画家であって、この川を美的に見ているのである。

もう一人の人は、しばらく川岸にたたずんでいたが、やがてしゃがんで、手の先を水に浸してみる。そして子供のころ裏の小川で遊んだことをおもい出す。「もうあの川にも、えびはいなくなっただろうな」と心の中でひとりごとをいう。この人は詩人であり、この川を詩的に見ているわけである。

中谷宇吉郎の他の作品