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TORENDIA

小切手

本文約1,700字 ・ 読了時間 約4分

あらすじ(AIが作成しました)

五銭の白銅貨を掌に握った幼い日の記憶を入り口に、物理的に手で触れられる「銭」と、資本主義の道具として抽象的な「かね」の概念の違いを考察する。アメリカの日常生活における小切手の浸透ぶりを例に挙げ、社会組織がいかに「かね」という実体のないものの上に成立しているかを論じる。また、現代日本において、昔ながらの生活様式と近代的な経済構造が混在している状況を描きつつ、貨幣に対する人々の意識と社会の変容を綴る随筆である。

中谷宇吉郎

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🎧 小切手 / 朗読音声: VOICEVOX:玄野武宏

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かねというと、何だか資本主義の道具の一つのように響く。しかし、錢には、全くそういう匂いがない。

錢ときくと、すぐ聯想されるのは、五錢の白銅貨である。子供の頃、年に一度の村の祭の日に、この白銅貨を貰うしきたりになっていた。その白い冷たい白銅貨を、しっかり掌の中に握りしめて、盛り場まで行く。着く頃には、掌の中はすっかり汗ばんで、白銅貨は、生温かくなっている。五十年後の今日まで、こういうことを憶えているところを見ると、幼な心に、よほど嬉しかったにちがいない。

錢の定義は、こういう風に考えると、手の中に握れるもの、ということになる。そうすると、かねの方は、錢とは別のものという意味で、握れないもの、即ち空なものということになりそうである。

まことに妙な定義のようであるが、又それでいいのかもしれないという氣もする。もっとも、かねは資本主義の道具の一つという假定の下での話である。資本主義と限らず、何でも主義と名がつく以上、それは空なものであってちっとも差支えがなく、むしろその方が本當であろう。

それだったら、資本主義の本家アメリカには、錢というものが無いはずだということになる。事實そのとおりであって、アメリカ人には、恐らく、われわれがもっている錢という觀念は無さそうである。もちろん、この話は、米國資本組織の齒車の中にはいっているアメリカ人のことである。その齒車からはずれている連中、即ち、黒人の大多數、外國移民などはその限りではない。

私達が今住んでいるところは、かなり高級な住宅地で、住民は、たいてい金持である。貧乏人といえば、私たちのような外國人か、その近所隣りの少數の仲間くらいである。

ところで、この頃、同じ町に住んでいるという意味で、そういう金持の連中にも、少し近附きが出來た。主として、末の娘の同級生の家庭である。この末っ子の餘惠で、女房は、大分金持連中の生活樣式を見たわけであるが、驚くべきことには、そういう金持の夫人達が、普段はほとんど金を持っていないというのである。普通、五弗くらいしか金としては持っていないらしい。

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