かねというと、何だか資本主義の道具の一つのように響く。しかし、錢には、全くそういう匂いがない。
錢ときくと、すぐ聯想されるのは、五錢の白銅貨である。子供の頃、年に一度の村の祭の日に、この白銅貨を貰うしきたりになっていた。その白い冷たい白銅貨を、しっかり掌の中に握りしめて、盛り場まで行く。着く頃には、掌の中はすっかり汗ばんで、白銅貨は、生温かくなっている。五十年後の今日まで、こういうことを憶えているところを見ると、幼な心に、よほど嬉しかったにちがいない。
錢の定義は、こういう風に考えると、手の中に握れるもの、ということになる。そうすると、かねの方は、錢とは別のものという意味で、握れないもの、即ち空なものということになりそうである。
まことに妙な定義のようであるが、又それでいいのかもしれないという氣もする。もっとも、かねは資本主義の道具の一つという假定の下での話である。資本主義と限らず、何でも主義と名がつく以上、それは空なものであってちっとも差支えがなく、むしろその方が本當であろう。
それだったら、資本主義の本家アメリカには、錢というものが無いはずだということになる。事實そのとおりであって、アメリカ人には、恐らく、われわれがもっている錢という觀念は無さそうである。もちろん、この話は、米國資本組織の齒車の中にはいっているアメリカ人のことである。その齒車からはずれている連中、即ち、黒人の大多數、外國移民などはその限りではない。
私達が今住んでいるところは、かなり高級な住宅地で、住民は、たいてい金持である。貧乏人といえば、私たちのような外國人か、その近所隣りの少數の仲間くらいである。
ところで、この頃、同じ町に住んでいるという意味で、そういう金持の連中にも、少し近附きが出來た。主として、末の娘の同級生の家庭である。この末っ子の餘惠で、女房は、大分金持連中の生活樣式を見たわけであるが、驚くべきことには、そういう金持の夫人達が、普段はほとんど金を持っていないというのである。普通、五弗くらいしか金としては持っていないらしい。