TRENDIA CLASSIC

巴里の教授會

中谷宇吉郎

1 / 2

この寫眞は、昭和四年の夏のものである。巴里のたしかルクサンブールの公園だったかと思うが、そこで撮った北大理學部の教授候補者たちの寫眞である。

後列右端から説明すると、最初が現北大理學部長太泰教授、當時男爵であったが、いかにもノーブルな顏である。次が今立教大學へ移っておられる吉田洋一さん、名著『零の發見』の著者である。三人目が、地質の原田教授、次が地質の鈴木教授である。

眞ん中の背の高いのが、現學術會議會長の茅さん、これが一番變っていない。次が私で、當時十二貫を上下していたころ。その次が物理の中村儀三郎教授で故人、左端が植物の山田教授である。山田さんは現在はもう禿げ上がって立派な老教授の風貌になっている。

前列右端が數學の河口教授、當時二十六歳くらいで、すでにひげを貯えていた。寫眞ではよくわからないが。次がデスモスチルスで有名な化石學者長尾教授、故人。眞ん中が田所教授で現在北海道學藝大學學長。當時北大農學部の中堅教授だったが、この仲間にはいると、ひどく年長に見える。次が現北大學長の杉野目さんで、當時からこの中でも、一番いきがよかった。左端が化學の柴田教授で故人。

昭和三年に、北大に理學部が創設されることになり、教授の候補者が、廣く全國から集められた。時の創立委員長、後の阪大總長眞島利行博士の意見で、なるべく若い人を、全國の各大學から一人ずつ採用することになった。たとえば物理では、既設の北大工學部から池田芳郎、東北帝大から茅誠司、東京帝大から私、京都帝大から中村儀三郎というふうに選ばれたわけである。平均年齡は三十何歳で、數學の功力、河口君などは、今の數え方だと二十六歳くらい。私も二十八歳だったかと思うが、ずいぶん思い切って若い連中を集めたものである。

そういう候補者たちは、一齊にヨーロッパとアメリカへ送り出された。そして二年間の留學を終えて、相前後して歸朝、昭和五年の理學部開學にほぼ間に合ったわけである。

中谷宇吉郎の他の作品