妄想
本文約13,500字 ・ 読了時間 約27分
あらすじ(AIが作成しました)
太平洋を望む砂山の小家に住む老人が、過去の記憶を回顧しながら生と死について思索する様子を綴る。若き日にドイツへ留学し医学を学んだ主人は、科学者として研鑽を積みながらも、絶えず何かを追い求めるような心の飢えを感じていた。帰国後、世間との交流を絶った隠遁生活の中で、過去の経験や科学の進歩、自身の半生を振り返りつつ、見果てぬ夢を抱きながら静かに日々を送る老人の心理を描く。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
目前には広々と海が横はつてゐる。
その海から打ち上げられた砂が、小山のやうに盛り上がつて、自然の堤防を形づくつてゐる。アイルランドとスコットランドとから起つて、ヨオロッパ一般に行はれるやうになつた dn といふ語は、かういふ処を斥して言ふのである。
その砂山の上に、ひよろひよろした赤松が簇がつて生えてゐる。余り年を経た松ではない。
海を眺めてゐる白髪の主人は、此松の幾本かを切つて、松林の中へ嵌め込んだやうに立てた小家の一間に据わつてゐる。
主人が元と世に立ち交つてゐる頃に、別荘の真似事のやうな心持で立てた此小家は、只二間と台所とから成り立つてゐる。今据わつてゐるのは、東の方一面に海を見晴らした、六畳の居間である。
据わつてゐて見れば、砂山の岨が松の根に縦横に縫はれた、殆ど鉛直な、所々中窪に崩れた断面になつてゐるので、只果もない波だけが見えてゐるが、此山と海との間には、一筋の河水と一帯の中洲とがある。
河は迂回して海に灌いでゐるので、岨の下では甘い水と鹹い水とが出合つてゐるのである。
砂山の背後の低い処には、漁業と農業とを兼ねた民家が疎らに立つてゐるが、砂山の上には主人の家が只一軒あるばかりである。
いつやらの暴風に漁船が一艘跳ね上げられて、松林の松の梢に引つ懸つてゐたといふ話のある此砂山には、土地のものは恐れて住まない。
河は上総の夷川である。海は太平洋である。
秋が近くなつて、薄靄の掛かつてゐる松林の中の、清い砂を踏んで、主人はそこらを一廻りして来て、八十八という老僕の拵へた朝餉をしまつて、今自分の居間に据わつた処である。
あたりはひつそりしてゐて、人の物を言ふ声も、犬の鳴く声も聞えない。只朝凪の浦の静かな、鈍い、重くろしい波の音が、天地の脈搏のやうに聞えてゐるばかりである。
丁度径一尺位に見える橙黄色の日輪が、真向うの水と空と接した処から出た。水平線を基線にして見てゐるので、日はずんずん升つて行くやうに感ぜられる。
それを見て、主人は時間といふことを考へる。生といふことを考へる。死といふ事を考へる。