本文へ移動
TORENDIA

杯

本文約2,400字 ・ 読了時間 約5分

あらすじ(AIが作成しました)

夏の朝、温泉宿から皷が滝へ向かう途中の泉に、七人の少女たちが集まる。彼女たちはお揃いの銀の杯で泉の水を飲むが、そこへ一人で現れた異国風の少女が、風変わりな黒い杯を手に加わる。言語の通じない環境で、銀の杯を差し出される少女が自らの杯で水を飲むという意志を毅然と示し、七人の少女たちと対峙する様子を描く。

森鴎外

速度
🎧 杯 / 朗読音声: VOICEVOX:雨晴はう

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 3

温泉宿から皷が滝へ登って行く途中に、清冽な泉が湧き出ている。

水は井桁の上に凸面をなして、盛り上げたようになって、余ったのは四方へ流れ落ちるのである。

青い美しい苔が井桁の外を掩うている。

夏の朝である。

泉を繞る木々の梢には、今まで立ち籠めていた靄が、まだちぎれちぎれになって残っている。

万斛の玉を転ばすような音をさせて流れている谷川に沿うて登る小道を、温泉宿の方から数人の人が登って来るらしい。

賑やかに話しながら近づいて来る。

小鳥が群がって囀るような声である。

皆子供に違ない。女の子に違ない。

「早くいらっしゃいよ。いつでもあなたは遅れるのね。早くよ」

「待っていらっしゃいよ。石がごろごろしていて歩きにくいのですもの」

後れ先立つ娘の子の、同じような洗髪を結んだ、真赤な、幅の広いリボンが、ひらひらと蝶が群れて飛ぶように見えて来る。

これもお揃の、藍色の勝った湯帷子の袖が翻る。足に穿いているのも、お揃の、赤い端緒の草履である。

「わたし一番よ」

「あら。ずるいわ」

先を争うて泉の傍に寄る。七人である。

年は皆十一二位に見える。きょうだいにしては、余り粒が揃っている。皆美しく、稍々なまめかしい。お友達であろう。

この七顆の珊瑚の珠を貫くのは何の緒か。誰が連れて温泉宿には来ているのだろう。

漂う白雲の間を漏れて、木々の梢を今一度漏れて、朝日の光が荒い縞のように泉の畔に差す。

真赤なリボンの幾つかが燃える。

娘の一人が口に銜んでいる丹波酸漿を膨らませて出して、泉の真中に投げた。

凸面をなして、盛り上げたようになっている水の上に投げた。

酸漿は二三度くるくると廻って、井桁の外へ流れ落ちた。

「あら。直ぐにおっこってしまうのね。わたしどうなるかと思って、楽みにして遣って見たのだわ」

「そりゃあおっこちるわ」

「おっこちるということが前から分っていて」

「分っていてよ」

「嘘ばっかし」

打つ真似をする。藍染の湯帷子の袖が翻る。

「早く飲みましょう」

「そうそう。飲みに来たのだったわ」

「忘れていたの」

「ええ」

「まあ、いやだ」

手ん手に懐を捜って杯を取り出した。

青白い光が七本の手から流れる。

皆銀の杯である。大きな銀の杯である。

森鴎外の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本