性急な思想
本文約3,700字 ・ 読了時間 約8分
あらすじ(AIが作成しました)
文壇や思想界において「近代的」という言葉が「性急」と同義として軽薄に用いられている現状を石川啄木が批判する。自身の生活の改善や社会の建設という本来の目的を見失い、反抗そのものに熱中したり、自身の弱点を近代人の証として誇ったりする風潮を「足を地から離した心」と断じる。生活の実際上の問題を軽視する安易な態度を戒め、自らの生活を真摯に統一し、改善へと向かう「性急ならざる心」を持つことの必要性を説く論考である。
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一
最近数年間の文壇及び思想界の動乱は、それにたずさわった多くの人々の心を、著るしく性急にした。意地の悪い言い方をすれば、今日新聞や雑誌の上でよく見受ける「近代的」という言葉の意味は、「性急なる」という事に過ぎないとも言える。同じ見方から、「我々近代人は」というのを「我々性急な者共は」と解した方がその人の言わんとするところの内容を比較的正確にかつ容易に享入れ得る場合が少くない。
人は、自分が従来服従し来ったところのものに対して或る反抗を起さねばならぬような境地(と私は言いたい。理窟は凡て後から生れる者である)に立到り、そしてその反抗を起した場合に、その反抗が自分の反省(実際的には生活の改善)の第一歩であるという事を忘れている事が、往々にして有るものである。言い古した言い方に従えば、建設の為の破壊であるという事を忘れて、破壊の為に破壊している事があるものである。戦争をしている国民が、より多く自国の国力に適合する平和の為という目的を没却して、戦争その物に熱中する態度も、その一つである。そういう心持は、自分自身のその現在に全く没頭しているのであるから、世の中にこれ位性急な(同時に、石鹸玉のように張りつめた、そして、いきり立った老人の姿勢のように隙だらけな)心持はない。……そういう心持が、善いとも、又、悪いとも言うのではない。が、そういう心持になった際に、当然気が付かなければならないところの、今日の仕事は明日の仕事の土台であるという事――従来の定説なり習慣なりに対する反抗は取りも直さず新らしい定説、新らしい習慣を作るが為であるという事に気が付くことが、一日遅ければ一日だけの損だというのである。そしてその損は一人の人間に取っても、一つの時代に取っても、又それが一つの国民である際でも、決して小さい損ではないと言うのである。