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TORENDIA

蘆声

本文約10,000字 ・ 読了時間 約20分

あらすじ(AIが作成しました)

三十余年前、平穏な生活を送る「自分」は、趣味の釣りを楽しみながら中川の西袋へ通っていた。ある日、釣り場を先取りしていた貧しい身なりの少年に出会う。自分は釣り場を譲り受ける中で、少年が義理の母との暮らしに苦しみ、幼いながらも家族のために魚を求めていることを知る。厳しい境遇にありながら自らを責める少年の健気な姿に心を打たれた自分は、少年に釣果を分け与える。その後、二度と会うことはなかったが、少年の面影は記憶に深く刻まれる。

幸田露伴

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今を距ること三十余年も前の事であった。

今において回顧すれば、その頃の自分は十二分の幸福というほどではなくとも、少くも安康の生活に浸って、朝夕を心にかかる雲もなくすがすがしく送っていたのであった。

心身共に生気に充ちていたのであったから、毎日の朝を、まだ薄靄が村の田の面や畔の樹の梢を籠めているほどの夙さに起出て、そして九時か九時半かという頃までには、もう一家の生活を支えるための仕事は終えてしまって、それから後はおちついた寛やかな気分で、読書や研究に従事し、あるいは訪客に接して談論したり、午後の倦んだ時分には、そこらを散策したりしたものであった。

川添いの地にいたので、何時となく釣魚の趣味を合点した。何時でも覚えたてというものは、それに心の惹かれることの強いものである。丁度その頃一竿を手にして長流に対する味を覚えてから一年かそこらであったので、毎日のように中川べりへ出かけた。中川沿岸も今でこそ各種の工場の煙突や建物なども見え、人の往来も繁く人家も多くなっているが、その時分は隅田川沿いの寺島や隅田の村でさえさほどに賑やかではなくて、長閑な別荘地的の光景を存していたのだから、まして中川沿い、しかも平井橋から上の、奥戸、立石なんどというあたりは、まことに閑寂なもので、水ただ緩やかに流れ、雲ただ静かに屯しているのみで、黄茅白蘆の洲渚、時に水禽の影を看るに過ぎぬというようなことであった。釣も釣でおもしろいが、自分はその平野の中の緩い流れの附近の、平凡といえば平凡だが、何ら特異のことのない和易安閑たる景色を好もしく感じて、そうして自然に抱かれて幾時間を過すのを、東京のがやがやした綺羅びやかな境界に神経を消耗させながら享受する歓楽などよりも遥に嬉しいことと思っていた。そしてまた実際において、そういう中川べりに遊行したり寝転んだりして魚を釣ったり、魚の来ぬ時は拙な歌の一句半句でも釣り得てから帰って、美しい甘い軽微の疲労から誘われる淡い清らな夢に入ることが、翌朝のすがすがしい眼覚めといきいきした力とになることを、自然不言不語に悟らされていた。

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