空車
本文約2,200字 ・ 読了時間 約5分
あらすじ(AIが作成しました)
古言の用い方や言語観を論じる随筆である。著者は、時と所の色を帯びた古言をあえて現代の文体で用いる意図を綴り、自ら付けた題名に込められた真意を明かす。さらに、街で見かける馬が引く巨大な空の荷車に視点を定め、その威風堂々とした姿を精緻に描写する。何物も載せず大道を行くこの車に対し、周囲の人々や乗り物が道を開けていく様を観察し、空虚であるからこそ放つ圧倒的な存在感やその美学を考察する内容である。
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むなぐるまは古言である。これを聞けば昔の絵巻にあるような物見車が思い浮かべられる。
すべて古言はその行われた時と所との色を帯びている。これをそのままにとって用いるときは、誰もその間に異議をはさむことはできない。しかしそうばかりしていると、そのことばの用いられる範囲がせばめられる。この範囲はアルシャイスムの領分を限る線によって定められる。そしてそのことばは擬古文の中にしか用いられぬことになる。
これは窮屈である。さらに一歩を進めて考えてみると、この窮屈はいっそう甚だしくなってくる。なぜであるか。いまむなぐるまということばを擬古文に用いるには異議がないものとする。ところで擬古文でさえあるなら、文の内容がなんであろうと、古言を用いていいかというに、必ずしもそうでない。文体にふさわしくない内容もある。都の手振だとか北里十二時だとかいうものは、読む人が文と事との間に調和をかいでいるのを感ぜずにはいない。
この調和は読む人の受用を傷つける。それは時と所との色を帯びている古言が濫用せられたからである。
しかしここにいう所は文と事との不調和である。文自体においてはなお調和を保つことが努められている。これに反して仮りに古言を引き離して今体文に用いたらどうであろう。極端な例をいえば、これを口語体の文に用いたらどうであろう。
文章を愛好する人はこれを見て、必ずや憤慨するであろう。口語体の文は文にあらずという人はしばらくおく。これを文として視ることをゆるす人でも、古言をその中に用いたのを見たら、希世の宝が粗暴な手によって毀たれたのを惜しんで、作者を陋とせずにはいぬであろう。
以上は保守の見解である。わたくしはこれを首肯する。そして不用意に古言を用いることを嫌う。
しかしわたくしは保守の見解にのみ安住している窮屈に堪えない。そこで今体文を作っているうちに、ふと古言を用いる。口語体の文においてもまた恬としてこれを用いる。着意してあえて用いるのである。